新羅の入寇

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、新羅からの流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。

新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。

概要

新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちが、8世紀以降かなり頻繁に対馬北九州を襲った[1]。しかしその中には組織的な大集団も多く、国家または強大な豪族の関与が疑われるものも多い。

なお平安中期まで日本では「高麗」といえば渤海国(東丹国)を指したため、朝鮮半島の高麗成立以後も11世紀半ば過ぎまでこれを区分するために「新羅(の賊)」という称も用いられた。

新羅の賊が発生した理由としては、『三国史記』新羅本紀の記述から、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたことが指摘されている[2]。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[2]。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[2]

しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[2]。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国に送還した[2]

また当時新羅は新羅下代から後三国時代につながる混乱期であって、慶州を中心とする王権は地方まで十分に及ばず、民衆は重なる政治混乱にも苦しんでいた。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。

日本では、白村江以来、唐・新羅の合従連衡による日本侵略を恐れていたため、新羅の行動はきわめて挑発的にみなされた。ただし、これらの海寇は全面戦争に波及せず、唐は中立を守ったものの、日本側は大きな自制を強いられていた。

前史

三国史記によると、新羅建国時から日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。多くの場合日本側が勝利を収め、新羅側は食料・金銭・一部領土等を日本に割譲した。なお新羅建国の王族の昔氏が倭人とされる。また、新羅の重鎮には倭人も登用されていたと考えられ、三国史記には新羅への数千人規模の倭人渡来の記述が見受けられる。

大化の新羅の賊

兵庫県朝来市赤淵神社[3]に伝承する『神社略記』によると、大化元年(645年)に表米宿禰命(ひょうまいすくね)が丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した。沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったと伝わる。赤淵神社は日下部氏が奉祭する。

663年天智天皇2年)8月には、倭国は百済の救援のため、朝鮮半島で・新羅連合軍と白村江の戦いを戦うが、敗北する。

天智天皇7年(668年)、新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く[4]。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰るという草薙剣盗難事件が発生している。

遣新羅使と新羅による日本への朝貢

668年以降、日本は遣新羅使を派遣している。天武天皇の即位から780年まで、日羅関係の情勢に応じながらも遣日本使が30回以上送られている。

672年壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇。在位673年 - 686年)は、親新羅政策を採った。また、次代の持統天皇(在位690年 - 697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとったが、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件を呑んで日本への朝貢関係を採った[5]

帰化人

日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された[5]持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国[6]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国[7]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[8]、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や[9]、下毛野国に居住させる[10]霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[11]天平5年(733年)[12]

「王城国」改称問題

しかし、新羅が国力を高めて、735年天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した[13]

両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[13]

阿倍継麻呂と疫病

736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[13]

また、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた[14]。だが、随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されている[15]が、雪連宅満の死因が天然痘と推測できるものはなく、当時「持ち込まれた」とされたことからも、それが天然痘であるかの判断はともかく、使者の帰国前までは同様の症状の疾病は国内に流行していなかったことが推測されるのみである。

金泰廉による日本への朝貢

752年天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[13]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[13]。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[13]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[16]が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた説には確証は無い[17]

長安での席次争い

753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[18]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[13]。この際唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ新羅を下位においた。この年の遣新羅大使は、新羅で景徳王に謁することが出来なかった[13][19]

藤原仲麻呂の新羅征討計画

天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[20][21]

朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来から新羅を属国と見なして来た日本(『隋書』倭国伝は、新羅が倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している。)は激しい反感を持ち、その様子は仲麻呂が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張である、「新羅が属国であるにもかかわらず日本に非礼であるためとしている」に窺える。

御調朝貢

8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[18]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった[18]

また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した[18]

遣新羅使停止

しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[22]。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[23][24]。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。

弘仁の新羅の賊

弘仁2年(811年)12月6日[25]、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった[25]

翌12月7日未明[26]、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した[25]。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した[25]。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた[25]。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門石見出雲等の国に通知した。

弘仁4年(813年)2月29日、肥前松浦郡五島小近島小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民と交戦し、島民を9人打ち殺し100人を捕虜にした[27][28]。この日は、基肄団校尉貞弓らの去る日であった。

また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した[29]

事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した[28]。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した[28]。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である[28]

弘仁新羅の乱

弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた[30][31]

両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。 しかし、相模武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。

帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。

乱後処理として弘仁14年(823年)に若くして気鋭の藤原衛遠江守に任ぜられる。衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったとされる。

承和8年(841年)、新羅海商の張宝高(張保皐)が故国で暗殺される事件が起きた。これを受けて、翌年には新羅人の日本への帰化が停止されることとなった[32]。これは、新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛が、新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(842年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言したものである。朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。これにより、新羅人は民間交易は許されたが鴻臚館への出入りが禁じられ官貿易から締め出される事になった[32]

山春永らの対馬侵攻計画

貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった[28][32]

なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた[32]

貞観の入寇

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊が艦二艘に乗り筑前国那珂郡博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと(うらない)が伝えたとある。

9世紀半ばには、五島列島に唐や新羅の商船が寄港する基地があり、新羅海賊もここを経由して博多を襲撃したとみられている[33][34]

また、同年の貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。

日本三代実録の記録

『日本三代実録』巻十六、貞観十一年六月十五日条から十八年三月九日条。新羅の賊の博多への入寇と、その後の対策該当箇所。

十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃灾有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之灾言上多利。自餘國國毛、又頗有件灾止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境內天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可愼恐。然我日本朝波所謂明之國奈利。明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此狀乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大國內乃諸達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境內爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國內平安爾鎭護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」
訓読文
十二月・・・十四日丁酉(ひのととり)、使者を伊勢の大神宮に遣はして、幣(みてぐら)を奉らむ。告文に曰ひけらく:「天皇が詔旨と、掛畏(かけまくもかしこ)き伊勢の度会(わたらい)の宇治の五十鈴の河上の下つ磐根(いわね)に大宮柱広敷立(ひろしきたて)、高天の原に千木(ちぎ)高知(たかし)りて、称言竟奉(たたえごとおえまつ)る天照坐皇大神の広前(ひろまえ)に、恐(かしこ)み恐みも申賜(まおしたま)へと申さく。去ぬる六月以来、大宰府度度言上(もお)したらく:『新羅の賊(あた)の舟二艘、筑前国の那珂郡の荒津に到来りて豊前国の貢調の船の絹綿を掠奪ひて逃退たり。』又庁樓(たかどの)兵庫(つわものぐら)等上(などのうえ)に、大鳥の怪(しるまし)あるに依りて卜(うら)へ求ぎしに、隣国(となりぐに)の兵革(いくさ)の事在るべしと卜(うら)へ申せり。又肥後国に地震(ない)風水(かぜあめ)の災(わざわい)有りて、舍宅(いえいえ)悉(ことごと)に仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民(おおみたから)多(さわ)に流れ亡(う)せたり。如此き之(わざわい)古来より未だ聞ずと、故老等(おきなたち)も申すと言上したり。然間に、陸奥国又常に異なる地震(ない)の災い言上したり。自余(そのほか)の国国も、又頗(またすこぶ)る件(くだり)の災(わざわい)有りと言上したり。伝(つた)へ聞く、彼の新羅人は我が日本の国と久き世時より相敵(あいあたな)ひ来たり。而るに今、境内(くにのうち)に入り来りて、調物を奪ひ取りて、懼(おそ)れ沮(はばか)る気(こころ)無し、(そ)の意況(こころばえ)を量るに、兵寇の萌(きざし)此自(よ)りして生(おこ)るか、我朝久しく軍旅(いくさ)無く専(もは)ら警備(いましめ)を忘れたり。兵乱(いくさ)の事、尤も慎み恐るべし。然れども我が日本の朝(みかど)は所謂神明(かみ)の国なり。神明の助(たす)け護り賜はば、何の兵寇(あた)か近き来るべき。況掛も畏き皇大神は、我朝の大祖(おおみおや)と御座して、食国(おすくに)の天下を照し賜ひ護賜へり。然則(しかればすなわち)他国(とつくに)異類(びと)の侮(あなどり)を加へ乱(みだり)を致すべき事を、何ぞ聞食(きこしめし)て、警(いまし)め賜ひ拒(ふせ)ぎ卻(しぞ)け賜はず在む。故是(かれここ)、王-從五位下-弘道王(ひろみちのおおきみ)、中臣-雅楽少允(うたまいのつかさすないまつりごとひと)-從六位上-大中臣朝臣(おおなかとみのあそみ-冬名(ふゆな)等を以て差使して、礼代(いやじろ)の大幣帛(おおみてぐら)を、忌部(いむべ)-神祇少祐(かむつかさのすないまつりごとひと)-從六位下-斎部宿禰(いむべのすくね)-伯江(はくこう)が弱肩(よわかた)に太襁(ふとだすき)取り懸けて、持ち斎(ゆまわ)り捧げ持たしめて奉出(たてまだ)し給ふ。此狀(このさま)を平(たいら)けく聞食(きこしめし)て、仮令(たとい)時世の禍乱(みだり)として、上(かみ)の件(くだり)の寇賊(あた)の事在るべき物なりとも、掛けまくも畏き皇大神(すめおおかみ)国内(くぬち)の諸神達(もろもろのかみたち)をも唱導(いざないみちび)き賜ひて、未(いま)だ発(い)で向(た)たざる前(さき)に、沮拒(ふせ)ぎ排卻(しぞ)け賜(たま)へ。若(も)し賊(あた)の謀(はかりごと)已(すで)に熟(な)りて兵船(いくさぶね)必(かなら)ず来(く)べく在らば、境内に入れ賜はずして、逐(お)ひ還(かえ)し漂(ただよ)ひ没(おぼ)れしめ賜ひて、我朝の神国と畏れ憚れ来れる故実(ふるごと)を澆(み)だし失ひ賜ふな。此自(よ)り外に、仮令(たとい)として、夷俘(えみし)の造謀(そむき)反乱(みだるる)事、中国(なかつくに)の刀兵(いくさ)賊難(あた)の事、又水旱(おおみづひでり)風雨の事、疫癘(えやみ)飢饉(うえ)の事に至るまでに、国家の大禍(おおまがつみ)、百姓(おおみたから)の深き憂へとも在るべからむをば、皆悉に未然(まだ)外(き)に払(はら)ひ却(しぞ)け鎖滅(ほろぼ)し賜ひて、天下躁驚(さやぐこと)無く、国内平安に鎮護り救助け賜ひ皇御孫命の御體を、常磐堅磐(ときわにかきわ)に天地日月と共に、夜護昼護(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきわ)へ矜(めぐ)み奉り給へと、恐み恐みも申賜はくと申す。」

日本側の対応

これに対し政府は囚人を要所に防人として配備することを計画したり[28]、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。

藤原元利万侶の反乱計画

また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚する[33]

国防体制

870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[28]する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[35]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった[35]

また、伊勢神宮石清水八幡宮香椎神功皇后陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた[35]。こうして新羅を敵視する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる[35]

貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する[36]

また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている[37]。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想神国思想とともに形成された[37]

また、貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる[38]

寛平の韓寇

日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本長崎壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。

貞観15年(873年)、武将でもある小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の拡充を行っている。

寛平5年(893年5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。

翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説にの関与を窺うためであったともいう。

寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた[28]

9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友[28]は郡司士卒を率いて、誘い込みの上でを構えた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った[28]。また、船11、太刀50、1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。

捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。朝鮮側の資料である『三国史記889年の記事にも、国内の不作と重税によって、反乱が起こったとあり、捕虜の虚言ではなく、反乱をさけて、国外に手を出したとみられる。

同年9月19日、大宰府飛駅の使が撃退の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。

翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた[28]

延喜の新羅の賊

天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方から猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。 「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている。

長徳の入寇

長徳三年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う[39]。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた[28]。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる[40]

百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。現地、史記のそれぞれに混同があると見られる。

同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島に命じて南蛮の捕縛を求めた[41]。この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺貝夜光貝硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることから、薩摩に出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろうと推測されている。

被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見ても奄美島人の単独行為とは思われず、数百人の拉致も前例がない。寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られる。

参議藤原実資の「小右記」当該記事の頭書(見出し)に高麗国の賊、としていることについて、後に全て高麗の所業と判明したためにこのような頭書が書かれた、とする説がある一方、歴史作家の永井路子は、陰険な性質で反道長派の実資が、報告を受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記していることから、そのことへの当てこすりとしてわざと「高麗の賊」との見出しをつけた(たかが奄美の賊に攻められた程度でなんとみっともない、という皮肉)、という見解を示している。藤原行成の「権記」の該当部分ではかなり深刻な事態であった様子が記されており、蔵人頭の行成と参議の実資ではかなり異なる受取り方をしている。

なお、女真による刀伊の入寇の翌年、1020年(寛仁4年)12月には再び薩摩国が襲撃され人民が拐われており、南蛮の賊徒によると見られている(『左經記』)[42]

その他

貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。また1093年には「海賊船」を拿捕し真珠水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している[43]。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。

影響

すでに貞観の韓寇にたいする奉幣祈願の文に「我が日本の朝は所謂 神明之国なり」という思想がみえ、神風による非戦の解決が唱えられているのが注目される。延喜3年7月には隠岐国に託宣があり、神風が賊船を漂没させたという風聞が行われている。また「?爾(サイジ)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、韓寇を非難するさまざまな言辞がみられる。

被害地では新羅人への反感も高まり、承和元年(834年)には「百姓、之を悪(にく)み彎弓で射て傷つく」などと在留者への暴力まで発生した。これに対し朝廷では「新羅人の来航を全面的に禁止すべき(藤原衛)」などの少数意見もあったが、徳を慕って来日する者に「仁恕」を示すべきとの意見が多数を占め、賊虜を放還するなど中途半端な対応を重ねた。

大宰府の府官による討伐は、封建武士の成長が遅れた九州において、健児クラスの武人を極端に成長させることはなかったが、後世少弐氏など府官の名目を持ち外交権の一部を管掌する特異な武士の成長を促した。

朝鮮側の諸史料は後世に再編されたものではあるが、新羅寇の記録はまったくなく、逆に新羅が倭寇に苦しんだとか日本に人質をもとめられた等の被害記事が多い。しかしいずれにせよ、朝鮮半島で後三国時代の混乱が高麗国の成立によって一旦治まると新羅寇の記録は日本側の史書で見えなくなる。

参考文献

  • 『鶏林拾葉』 塙保己一編著 部類記。国会図書館近代デジタルライブラリーでも公開。
  • 国史大系
  • 『日本後紀 全現代語訳 上・中・下』森田悌 講談社学術文庫 ISBN 978-4-06-159789-1
  • 『日本書紀 全現代語訳 上・中・下』宇治谷孟 講談社学術文庫
  • 『しまぬゆ 1 ―1609年、奄美・琉球侵略』(2007)義富弘著、「しまぬゆ」刊行委員会編、南方新社、ISBN 4861241081

脚注

  1. 北山茂夫[書籍名は?]
  2. 田中史生『越境の古代史』ちくま新書、152-153頁
  3. 朝来市和田山町枚田上山に所在
  4. 日本書紀
  5. 北山茂夫「持統天皇論」『日本古代政治史の研究』1959年,202-203頁。
  6. 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  7. 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  8. 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  9. 『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  10. 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  11. 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  12. 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  13. 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997
  14. 『続古事談』巻5・『塵添壒嚢鈔』巻5第23
  15. 笠原永遠男「遣新羅使と疫瘡」 笠原編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年
  16. 和田軍一「淳仁朝に於ける新羅征討計画について(一)」 1924
  17. 東野治之『正倉院』岩波書店1988
  18. 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008,291頁
  19. 「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」『三国史記
  20. 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  21. 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波書店、1997年、酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年
  22. 日本後紀』による
  23. 東野治之『正倉院』岩波書店、1988年、ISBN 4004300428
  24. 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  25. 日本後紀』弘仁三年(812年)正月五日に出された勅における、12月28日の大宰府奏上
  26. 日本紀略
  27. 「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島小値賀島への入寇をめぐる諸事項。
  28. 瀬野精一郎、佐伯弘次、小宮木代良、新川登亀男、五野井隆史『長崎県の歴史(県史42)』山川出版社、1998年9月30日。ISBN 978-4634324206。
  29. 日本後紀』弘仁四年(813年)3月18日に太宰府言上。肥前国司の今月四月解。
  30. 日本後紀
  31. 『紀略』弘仁十一年(820年)2月26日条
  32. 「新編大村史」第一巻 3.古代編 第2章 平安時代”. 大村市. 2020年4月25日閲覧。
  33. 吉田孝・大隅清陽・佐々木恵介「9-10世紀の日本ー平安京」岩波講座『日本通史 第五巻 古代4』岩波書店1995,47頁
  34. 戸田芳実『初期中世社会史の研究』東京大学出版会1991年
  35. 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008,294頁
  36. 『三代実録』貞観十二年九月十五日甲子
  37. 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008,265頁
  38. 山崎雅稔 「貞観八年応天門失火事件と新羅賊兵」『人民の歴史学』146号,2000年,東京歴史科学研究会。
  39. 百練抄』長徳三年(997年)10月1日、四年2月の条にみえる高麗国人の九州「虜掠」と征伐の記事
  40. 『紀略』『小右記
  41. 『紀略』
  42. 義富(2007), p.44
  43. 高麗史

関連項目

外部リンク

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