日本橋中洲
日本橋中洲(にほんばしなかす)は、東京都中央区の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は103-0008[2]。「日本橋○○」と称される地名の中では唯一、末尾に「町」が付かない地名である。
日本橋中洲 | |
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![]() 日本橋中洲 日本橋中洲の位置 | |
| 北緯35度40分58.92秒 東経139度47分25.3秒 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 特別区 |
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| 地域 | 日本橋地域 |
| 人口 | |
| • 合計 | 2,506人 |
| 等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
| 郵便番号 |
103-0008[2] |
| 市外局番 | 03[3] |
| ナンバープレート | 品川 |
地理
東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、北で日本橋浜町、隅田川を跨いで東側で常盤・清澄、南東の隅田川上の一点で佐賀、南西で日本橋箱崎町と隣接する。このうち江東区清澄との間には清洲橋が渡されており、日本橋中洲はその西詰に当たる。江東区常盤および佐賀とは水面上でのみ接しており、陸上交通では直接渡れない。日本橋久松町に所在する久松警察署の管轄に当たる。
歴史
中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695年(万治2年)吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。
1886年(明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。1893年(明治26年)真砂座ができると、中洲は娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、大正期には早くも廃れた。
1935年(昭和10年)中洲に改称する。1947年(昭和22年)より中央区日本橋中洲。1971年(昭和46年)そのまま住居表示が実施された。1971年(昭和46年)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられ、完全に地続きとなった。
施設
- 金刀比羅宮
脚注
- “町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
- “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
- “区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年9月23日閲覧。
外部リンク
- 中央区ホームページ
- 日本橋浜町地区 町名の由来 - 中央区
- 中洲町会ウェブサイト

