日置政次
生涯
経歴
明応年間に伊賀で生まれたとされており北面の武士として活動。しかし病と診断され弓術の研究に励む。応永年間に源氏一族、または佐々木氏一族の吉田重賢に「吉田流」として伝えた。また安松左近吉次に「日置流」を伝えた。晩年(1502年?)に病に倒れ死去。その後は子の新三郎から今に至るまで伝えられた。
人物
政次は当時諸国では名の知れた弓術流派であったとされ、戦場で矢種が尽きたため身を潜めていたが敵が襲ってきたため、政次が弦を打ちながら「えい!」と掛け声を出すと敵は戦わずに逃げていったとされるエピソードが残っている。また政次は信頼されていた弓術流派であったとされ多くの人々が「日置流」を受け入れ政次流弓術が広まったとされる。
逸話
政次は実際には生まれた際に武将足利義輝公に仕えたとされている。また政次と「吉田流」の流祖吉田重賢と同一人物とされている。また政次は影光、宗品、豊秀、道以、威徳の名前があるとされ晩年には高野山で落髪し瑠璃光坊以徳と名前を号したと言う説がある。また出生地は大和国であるとされ愛国村に住んでいたとも言われている。
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