李景遺
経歴
若くして雄武にたけ、胆力があり、はみ出し者たちと結んで盗賊となり、郷里を荒らして苦しめていた。永安3年(530年)、兄の南鉅鹿郡太守李無為が横領の罪で御史の弾劾を受け、州の獄中に拘禁された。景遺は十数騎を率い、台使と偽って州城に入り、李無為を連れ去った。州軍が追討したが、捕らえることはできなかった。このことで任侠として知られた。普泰元年(531年)、高歓が信都で挙兵すると、景遺はその軍門に赴き、厚遇を受けた。李元忠とともに西山で挙兵して、殷州刺史の爾朱羽生を捕らえた。功績により龍驤将軍に任ぜられ、昌平県公に封ぜられた。爾朱兆が攻撃してくると、景遺は奮戦して功績を挙げ、使持節・大都督・左将軍となった。太昌元年(532年)、昌平郡公に進み、車騎将軍を加えられた。東魏の天平元年(534年)、潁州刺史として出向した[1][3]。天平4年(537年)[4][5][6]、前の潁川郡太守の元洪威に襲撃されて殺害された。侍中・都督殷滄二州諸軍事・大将軍・開府・殷州刺史の位を追贈された。子の李伽林が後を嗣いだ[1][7]。
脚注
伝記資料
- 『北斉書』巻22 列伝第14
参考文献
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