松平忠啓
松平 忠啓(まつだいら ただひら)は、江戸時代中期の大名。伊勢国桑名藩3代藩主。官位は従四位下・下総守。奥平松平家5代。
凡例 松平忠啓 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
| 生誕 | 延享3年12月15日(1747年1月25日) |
| 死没 | 天明6年12月10日(1787年1月28日) |
| 改名 | 岩次郎(幼名)、清盈(初名)、忠啓 |
| 別名 | 民部、兵庫(通称) |
| 戒名 | 崇巌院殿功運道惇大居士 |
| 墓所 | 東京都台東区谷中の天眼寺 |
| 官位 | 従四位下下総守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治 |
| 藩 | 伊勢桑名藩主 |
| 氏族 | 奥平松平家 |
| 父母 | 松平忠刻、市原氏娘・純性院 |
| 兄弟 | 忠泰、忠啓、律姫ら |
| 妻 |
毛利重就六女・澄 関口氏 |
| 子 |
久仁姫、雲性院、美須子、国姫ら 養子:忠功 |
生涯
延享3年(1746年)12月15日、2代藩主・松平忠刻の次男として江戸浅草の鳥越下屋敷にて誕生。幼名は岩次郎、初名は松平清盈(きよみつ)。宝暦13年(1763年)1月に長兄・忠泰が早世したため、3月27日に世子に指名され、諱を忠啓に改める(奥平松平家の家督を継ぐものだけが冠する「忠」の字を与えられた[1])。明和8年(1771年)6月14日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。
しかし、安永元年(1772年)には桑名城下で火災が起こり、安永2年(1773年)にも大洪水で被害を受け、前者は3000両、後者は5000両の被害を出した。このため藩財政が悪化し、再建のために家臣の半知借上や年貢増徴を行っている。安永5年(1776年)や安永9年(1780年)にも桑名城下で火災が起こり、天明2年(1782年)にも大洪水を受けるなどしている。しかも同年12月には、洪水の被害と重なって年貢増徴に不満を持った百姓一揆までも起こる有様だった。天明4年(1784年)には天明の大飢饉で多数の餓死者を出している。
脚注
- 奥平松平家における「清」、「忠」の字については松平清照の項を参照。清照は清盈(忠啓)の曽祖父にあたる人物だが、病弱を理由に家を継ぐことができず「忠」の字を冠した名前を名乗ることもできなかった。また、父・忠刻も初めは清種と名乗っていたし、忠啓が初め「清盈」と名乗っていたのも元々兄の忠泰が奥平松平家を継ぐ予定だったからである。
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