松平忠栄 (尼崎藩主)
松平 忠栄(まつだいら ただなが[5]/ただなか[2])は、江戸時代後期の大名。摂津国尼崎藩の第6代藩主。桜井松平家15代当主。
凡例 松平忠栄 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
| 生誕 | 文化元年12月13日(1805年1月13日) |
| 死没 | 明治2年9月7日(1869年10月11日) |
| 別名 | 千勝・主水(幼名)[1]、与次郎[2] |
| 神号 | 源忠栄朝臣命[注釈 1] |
| 戒名 | 豊安院徳誉信沢道佚大居士[4] |
| 官位 | 従五位下遠江守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
| 藩 | 摂津尼崎藩主 |
| 氏族 | 桜井松平家 |
| 父母 |
父:松平忠告、母:松平光雄娘・吉 養父:松平忠誨 |
| 兄弟 | 忠宝、菅沼定賢、忠得、忠進、平岡頼暢、忠栄、相馬祥胤正室、峻章院、加藤明允正室、本多忠升正室、於鏡の方 |
| 妻 |
正室:小笠原忠固の長女 継室:松平宗発の娘・洵子 |
| 子 | 忠興、万里小路通房後室ら |
生涯
生い立ち
文化元年(1804年)12月13日[1]、尼崎藩3代藩主松平忠告の八男として[1]、尼崎において誕生[1]。母は側室の澤田寿女(すめ)[1]。忠告には22人の子があったが、忠栄はその末子であった[1]。
文化2年(1805年)12月10日、忠告は江戸で没した[1]。文化9年(1812年)3月20日、忠栄は江戸に移っている[1]。
文政12年(1829年)8月27日、忠栄の甥にあたる5代藩主・忠誨(27歳)が在国中に死去[1][6]。忠誨には跡継ぎがおらず[1][6]、忠誨の弟の忠顕は心の病を患っていたとされる[6][注釈 2]。このため叔父の忠栄(26歳)が家督を継ぐこととなり、10月2日に相続が認められた[1][6]。
藩政改革
忠栄は藩政にも積極的に関わり、厳しい財政難を乗り切るための藩政改革に取り組んだ[6]。天保5年(1834年)、西本願寺や各藩の財政再建で名を馳せていた大坂の商人大根屋小右衛門(石田敬起・知白斎)を登用して財政再建を試み[6][9]、また弘化2年(1845年)には伊丹の酒造家である小西新右衛門と笹屋勘左衛門を通して借財整理を図っている[6][9]。また、天保10年(1839年)には鶏卵を専売している[2][9]。藩士の減給や領民への御用金賦課も厳しいものではあったが、領民の意見を聴取する目安箱を尼崎城西大手門に設置し、近習を「市郷見廻り」に任じて領民の申し出を受け付けるようにするなど、不満が噴出しないよう巧みなかじ取りを行った[6]。
安政6年(1859年)時点で藩の借銀は8,290貫に達し、これは歳入の2.8倍に及ぶものであるという[9]。
系譜
生母の生家である澤田家は、摂津国西成郡大道村(現在の大阪市東淀川区)の郷士で、広大な土地を所有し、代々左平太を襲名した家である[1]。大坂の陣の際に徳川家康の道案内をしたという由緒から士分の格式となり、大名家とも通交していた[1]。
脚注
注釈
出典
- 公手博. “側室・澤田すめ”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- “松平忠栄”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月27日閲覧。
- “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
- 山下幸子. “松平忠栄”. Web版 尼崎地域史事典. 2021年11月27日閲覧。
- 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- 岩城卓二. “忠栄と忠興”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- 大槻晃実. “洋画家 櫻井忠剛”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ”(回答). “尼崎藩最後の藩主櫻井(松平)忠興(ただおき)と、尼崎町長及び初代尼崎市長を勤めた櫻井忠剛(ただかた)の関係を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年11月27日閲覧。
- 岩城卓二. “窮乏する藩財政”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。