柳斎重春
来歴
肥前国長崎鍛治町の商家山口善右衛門(屋号大島屋)の次男として生まれる。俗称は山口甚次郎。玉柳亭、烽山、日華とも号す。重春とは親交のあった花笠外史の著『役者風俗三国志』の序文には重春について、「…画を好み寝食を忘れ、師なくて学び真を観て臨(うつ)し、遂に一家をなすに到る」とあり、要するに定まった絵の師匠はいなかったと記している。丸丈斎国広または柳川重信の門人だったともいわれるが定かではない[2]。
幼い頃に父善右衛門とともに長崎から大坂に移り住む。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)の間には大坂の三ツ寺町に住んだ。作画期は文政4年(1821年)からのものが確認されており、作品は役者絵や版本挿絵、肉筆画などがあり、一説には芝居の絵看板も描いたという。当初は長崎国重、梅丸斎国重、また瀧川国重とも称している。文政9年(1826年)7月に柳斎重春と改名、天保元年(1830年)からは玉柳亭の号を使う。重春の役者絵は、国重を称した頃は江戸の役者絵に近い垢抜けした画風を見せるが、柳斎を称しはじめた頃から上方絵特有の濃密な画風に傾倒し、固定化している。享年51。墓所は長崎県長崎市の永昌寺、戒名は烽山柳春居士。かつて大阪市天王寺区の伝光寺にも墓があったが、伝光寺は戦後に他の寺と合併し無くなっており、重春の墓も現存しない。門人に柳狂亭重直、重房がおり、重春の長女よねは米春と号して画業を継いでいる。
作品
版本挿絵
錦絵
- 「まりがせ秋夜・中村歌右衛門」 大判 ボストン美術館所蔵 ※文政4年9月、大坂角の芝居『太平記菊水之巻』より。「長崎国重画」の落款あり
- 「梅の由兵衛・市川鰕十郎 小梅弟長吉・坂東寿太郎」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政8年8月、角の芝居『隅田春妓女容性』より。「瀧川国重画」の落款あり。滝川国広との合作
- 「石川五右衛門・歌右衛門」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政9年7月、大坂中の芝居『木下蔭狭間合戦』より。「国重改柳斎重春画」の落款あり
- 「朝比奈藤兵衛・市川鰕十郎」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政9年7月、中の芝居『極彩色娘扇』より
- 「七変化之内 獅子・中村歌右衛門」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政12年3月、角の芝居『皆老ちよつと七化』より
- 「自来也・中村歌右衛門」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※画中「春の香は残らぬ梅のもみち哉 梅玉」の句あり。天保3年8月、角の芝居『柵自来也談』より
- 「小野小町・梅花 僧正遍正、文屋康秀、在原業平、喜撰法師、大伴黒主・芝翫」 大判 東京都立図書館所蔵 ※天保5年正月、角の芝居『六歌仙容彩』より
- 「座頭、太夫、お福、仕丁、業平、越後獅子、鍾馗・中村歌右衛門」 大判7枚揃 ※天保9年正月、中の芝居『昔慕やはり七化』より。
- 「大阪北新地ねり物 孟宗 伊勢島八重」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「大坂北新地ねり物 鶯宿梅 明石屋小とま」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「大阪北新地ねり物 あたか 伊勢島もん」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「嶋之内ねりもの けそう文 伊丹駒小なべ」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「島之内ねりもの 湯あがり 京扇屋てふ」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「嶋之内ねりもの 感陽宮 中森軒小浪」 大判 ボストン美術館所蔵
- 「嶋之内ねりもの 華陽夫人 中森軒ゑい」 大判 ボストン美術館所蔵
脚注
- 生年は享和3年、没年は嘉永6年5月29日ともいわれているが(『浮世絵師伝』等)、長崎県長崎市の永昌寺にある重春の墓には「嘉永五壬子五月二十九日」、「行年五十一」とあることが指摘されている。松平進「柳斎重春 ―上方の役者絵(六)―」58頁参照。
- 国広とは「肩書きに明記する形で」師弟関係があったとはいえず、重信も文政5年以降、九年の間大坂にいたが、重春の画風が江戸風から上方風に変化した時期や上記『役者風俗三国志』の記述などから、重信とも師弟の関係にあったとは認め難いとの意見が出されている。「柳斎重春 ―上方の役者絵(六)―」89 - 90頁。
- 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年9月1日、pp.206、370。
参考文献
関連項目
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