榎並城
榎並城(えなみじょう)は、摂津国東生郡榎並荘、現在の大阪府大阪市城東区野江付近にあった日本の城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城(じゅうななかしょじょう)とも言った。
![]() logo (大阪府) | |
|---|---|
![]() 榎並城の石碑 | |
| 別名 | 江波城、十七箇所城 |
| 城郭構造 | 平城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 三好政長 |
| 築城年 | 天文年間 |
| 主な改修者 | 不明 |
| 主な城主 | 三好政勝(宗渭) |
| 廃城年 | 天文18年(1549年) |
| 遺構 | 不明 |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | なし |
| 位置 | 北緯34度42分32.755秒 東経135度32分22.295秒 |
| 地図 |
![]() 榎並城 |
概要
榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。
この地は茨田堤築造によって陸地化した場所で、平安時代に榎並荘という荘園が成立した。地域の南側は旧大和川と旧淀川の合流地点で、周囲は氾濫原・低湿地であり、野江水神社付近のわずかな高台に築かれたのではないかと思われる。しかし、その城跡も元禄17年(1704年)2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。
「此城は元来も宗三が館なれば、究竟(きゅうきょう)の要害を拵(こさ)へ、日来は子息衛門大夫政勝を籠置たり」(『万松院殿穴太記』)との記載が見受けられる。宗三は三好政長の事で衛門大夫政勝は政長の息子三好政勝(宗渭)の事を指し、強固な城郭を築いたのではないかと推察されている。
沿革
城史については大きく3つに分けられる。
楠木時代
榎並の地の初見は南北朝の争乱の時で、北朝に寝返った楠木正儀が応安2年(1369年)3月、天王寺から榎並に退いて陣をしいたという記録がある(『花宮三代記』)。この時の陣所はどこか定かではないが、『日本城郭大系』によると、地勢からいって野江水神社周辺であったと解説している[1]。ただ、この時の陣所が後の強固な城郭に繋がっていたのかは定かではない。
野江水神社
![]() 野江水神社の鳥居 |
![]() 野江水神社の裏側 |
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている[2]。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われているので、おそらくこの野江水神社を含めた部分が城郭であったと推察されている。また豊臣秀吉も大坂城を築城する際には、社殿を修築し国家泰平を祈願したとの伝承が残っている[3][4]。
城跡へのアクセス
![]() 野江内代駅 ![]() 城郭の一部ではないかと推定されている榎並小学校 |
- 電車でのアクセス
- Osaka Metro谷町線「野江内代駅」 - 徒歩約5分
- 車でのアクセス
- 阪神高速12号守口線「城北出口」
- 近隣に駐車場無し(野江水神社に参拝者用の駐車場が1,2台あり)







