段孝言

段 孝言(だん こうげん、生没年不詳)は、南北朝時代東魏北斉官僚政治家本貫武威郡姑臧県[1][2][3]

経歴

段栄の次男として生まれた。東魏武定末年、司徒参軍事を初任とした。550年天保元年)、北斉が建国されると、兄の段韶の別封である覇城県侯の爵位を受けた。儀同三司・度支尚書・清都尹に累進した[4][5][6]

孝言は勲臣の一族であることに驕って、乱行と奢侈にふけり、海州刺史に左遷された。ほどなく兄の段韶のおかげで鄴都に召還されて、都官尚書に任じられた。陽城郡を食邑とし、開府儀同三司の位を加えられた。後に太常卿に転じ、斉州刺史に任じられたが、収賄の罪で御史の弾劾を受けた。武成帝が死去すると、赦免された。再び太常卿に任じられ、河南郡を食邑とした。後に吏部尚書に転じた[7][8][6]

571年武平2年)、和士開が殺害されて祖珽が政権を握ると、祖珽は趙彦深を左遷し、孝言を召し出して執政を助けさせた。孝言は侍中を兼ね、内省に入り、機密を管掌した。まもなく吏部尚書のまま、正式に侍中となった。孝言には人物の鑑識眼がなく、かれの抜擢した者は贈賄するような者ばかりだったので、官界の不満が高まった。「尚書は天下の尚書であるのに、どうしてひとり段家の尚書であるのか」と非難されて、返す言葉もなく憮然とするのみであった。中書監に転じ、特進の位を加えられた。ほどなく韓鳳を利用して、祖珽を攻撃する側に回った。573年(武平4年)、祖珽が失脚した後、孝言は尚書右僕射に任じられ、人材の選挙をつかさどった。鄴城の北壁の建設を命じられて、その工事を監督した。儀同三司の崔士順、将作大匠の元士将、太府少卿の酈孝裕、尚書左民郎中の薛叔昭、司州治中の崔龍子、清都尹丞の李道隆、鄴県令の尉長卿、臨漳県令の崔象、成安県令の高子徹らが孝言の部下についた。孝言は富商や大賈の人物を多く抜擢して、放漫な風潮を横行させた。まもなく特進・侍中のまま尚書左僕射に転じた[9][8][10]

孝言は豪奢な暮らしをして、とくに女色を好んだ。後に婁定遠の妾の董氏を妻に迎えて溺愛したが、このことが周辺に不和をもたらし、弾劾を受けて免官され、光州に流された。孝言は不正蓄財と酒色をほしいままにしたが、挙措は風流であった。名士を集めて詩を賦し、音楽を演奏するなど、歓楽を尽くした。草莽の人士であっても賓館に招き、ときには貧窮した者にも施しをしたので、世間に人気があった。北斉が滅ぶと、北周に仕え、開府儀同大将軍に任じられ、後に上開府の位を加えられた[11][12][13]

脚注

  1. 氣賀澤 2021, p. 199.
  2. 北斉書 1972, p. 207.
  3. 北史 1974, p. 1959.
  4. 氣賀澤 2021, pp. 211–212.
  5. 北斉書 1972, p. 214.
  6. 北史 1974, p. 1964.
  7. 氣賀澤 2021, p. 212.
  8. 北斉書 1972, p. 215.
  9. 氣賀澤 2021, pp. 212–213.
  10. 北史 1974, pp. 1964–1965.
  11. 氣賀澤 2021, pp. 213–214.
  12. 北斉書 1972, p. 216.
  13. 北史 1974, p. 1965.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
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