生駒親睦
生涯
駿河国田中藩主本多正矩の七男として誕生した(本多正珍の庶長子とする説もある[1])。
養嗣子の生駒親信に先立たれた交代寄合生駒親賢の養子となった。明和8年(1771年)3月25日、将軍徳川家治に御目見した。同年8月8日、親賢の隠居により家督を相続した。安永9年(1780年)7月1日、初めてお国入りする許可を得た。生駒家は交代寄合であったものの、それまで参勤交代をしていなかった。天明2年(1782年)2月12日、死去。49歳。家督は子の親章が継いだ。
正室は生駒親賢の養女(実父津田信成、生駒親信の元正室)。1男4女、そのうち養女2人。どちらも義父の親賢の娘であり、片方は京都町奉行などを勤めた旗本牧義珍の室、もう一人は本多正峯と婚約するが、嫁ぐ前に死去した。
脚注
出典
- 『秋田県史 [通史編] 第7巻 (年表索引編)』(秋田県、1966年)附録 各藩歴代藩主系譜 p.8
参考文献
- 「寛政重修諸家譜」
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