筋違橋門
概要
当門は、加賀藩主前田利常によって、枡形は寛永13年に完成、門は寛永16年に完成した。「すじかい」という名前がついた由来は、中山道と上野寛永寺へ向かう御成街道が、交差することから付けられたとされる。
現在では、中央線の高架のレンガの壁沿いに、「御成道」の説明板がたっていて、わずかに、筋違橋門があったことがわかるだけ。元の鉄道博物館の建物の南側を中央線の高架沿いに神田郵便局に向かって歩いていくとレンガ壁の脇に説明板がひっそりとたっている。
6代将軍、徳川家宣に仕えた新井白石が鬼門を研究し「鬼門考」を著しており、徳川家康が江戸城構築にあたり城から鬼門方位の橋を案じる家臣に対し「名前だけを違えよ」と命じ、位置は変えず、「筋違橋門」と名をつけたと述べている[1]。
筋違橋
筋違橋が架けられたのは、寛永20年間(1624年 - 1644年)であったといわれている。筋違橋御門が撤去されたのが、明治5年(1872年)で、翌六年に御門の石材を利用して、石造アーチ形の万世橋が架けられた。現在の万世橋は昭和5年(1930)に架設されたもので、長さ26メートル、幅員が長さよりも広い30メートルもあり、堂々たる親柱が印象的な橋である。
画像
筋違橋
脚注
出典
- 小池康寿 2015, p. 38.
関連文献
- 斎藤長秋 編「巻之二 天枢之部 筋違」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、96-97頁。NDLJP:1174130/54。
外部リンク
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