篠崎護

篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)は、戦前日本の報道記者スパイ、日本軍占領下シンガポールの軍政幹部、戦後日本の実業家、著作家。[1]

経歴

生い立ち

  • 1908年2月、福岡県生まれ[2]。父は福岡の石炭鉱山主で、仕事で各地に転住したため篠崎は主に祖母に育てられた[2]
  • 当時禁止されていた社会主義運動団体に参加して京都の高等学校を退学になる[2]
  • 1年間浪人した後、明治大学に入学し、新聞学科で学ぶ[2][3]

報道記者

スパイ活動

  • 1936年 日本に呼び戻され、外務省情報部嘱託としてベルリンに派遣される[6][7][8][9][10]
  • 1938年10月[11]、某ドイツ人女性との関係が問題視され[2][12]シンガポールに転任になる[2][13]。シンガポールでは日本総領事館「嘱託」の報道記者として東方通信社に勤務し[14]、現地で創刊した英字紙『シンガポール・ヘラルド』に日本の同盟通信のニュースを提供しながら[15][16]、シンガポールの軍情調査や中国系住民社会に関する情報収集を行う[17]
  • 1940年9月21日、英軍の将校からシンガポールの防備に関する情報を聞き出そうとするなど、英国の利益を侵害する目的で外国勢力に有用な情報を収集したとして、公職守秘法違反容疑で英海峡植民地警察特高科に逮捕され、同年12月に裁判で有罪が確定、1,000ドルの罰金と3年半の禁固刑を言い渡され、チャンギ刑務所に収監される(篠崎スパイ事件[18][19][20]

軍政幹部

シンガポール陥落後、戦跡を視察する山下将軍(左から2人目)らと篠崎(右端)[21]

昭南警備隊司令部嘱託

昭南特別市・教育科長

  • 1942年3月 豊田薫とともに昭南特別市政庁に出向し、教育科長を務める[26][27]
  • 1942年6月11日 一時帰国[28]

昭南特別市・厚生科長

  • 1942年8月初旬、シンガポールに戻り、厚生科長に就任[29]。終戦まで、他科に属さない失業救済問題、ローンの提供、市民の福祉、社会福祉や宗教団体に関する業務や催事の実行など、市民生活に関する雑多な業務を担当した[30]

英軍通訳

  • 1945年8月の日本軍降伏後、英軍の通訳となり、本国に送還される日本人民間人や軍人の通訳として活動[26][3]
  • 1947年 シンガポール華僑粛清事件の戦犯裁判に、検察側証人として出廷し、証言[31][32]
  • 1948年 日本に帰国[3]

戦後

  • 日本に帰国後、貿易会社を経営したが失敗を重ね、シンガポール、濠州、欧米を転々、1976年当時シンガポール在住[3]
  • 1976年当時、(社)日本シンガポール協会・(財)海外農業開発財団顧問[3]、国際協力(株)顧問[5]
  • 1991年に死去[33]

人物・評価

日本のシンドラー

「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる[34]

華僑の保護

篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め[31][35]、自著の中でも同趣旨の叙述をしている[36]。また、河村の遺著にも篠崎が河村と横田大佐のために人格証言をしたことが記されている[37]

また篠崎は自著の中で、華僑協会は華僑の助命を促すために自身が設立した団体で、同協会は華僑強制献金を推進した団体と思われているが当初は性格が異なり、自身は強制献金には関与していなかった、としているが[25]原 (1987, pp. 90–93)は、華僑協会はシンガポールでの設立以前にマレー半島の他の都市でも設立されており、また篠崎の著書では協会が強制献金を推進した時期が歪曲されていて、篠崎が協会に関与していた協会の設立当初から協会は強制献金を推進していたとして、篠崎を批判している。

スパイの大物

篠崎のスパイ事件は戦前のシンガポールを震撼させ[38]、篠崎が戦前日本のスパイで、日本の占領期間中に軍政幹部となった人物であることは当時のシンガポールではよく知られていた[39]。占領期間当時の篠崎の人物について、住民と接する際の物腰は柔らかく、また交際範囲も広く、誰にでも信頼感を抱かせることのできる「専門家」だったとの評がある[39]

1940年のスパイ事件の際に篠崎を逮捕した当時の海峡植民地警察アラン・ブレード特高科長は、事件の30年後の所感として、日本軍占領時期に篠崎はシンガポールの地域共同体を助けるために「大変純粋に努力した」と認めることができるように感じていたが、また篠崎の戦前のスパイ活動は重大事件だったと確信し続けてもいた[26]

エピソード

  • 日本軍占領初期に英字紙『昭南タイムス』の編集長をしていた井伏鱒二は、戦前から篠崎と面識のあった同紙の記者たちは、戦前の篠崎は酒場などで顔を合わせるとにこにこしてビールを注ぎ、酒場から出るときには肩を組んでくれたが、昭南特別市政庁幹部となってからは、市の布告を新聞社へ持ち込むときに会っても硬い表情をして通り過ぎると話していた、としている[40]
  • コーナー (1982, p. 101-103)によると、1942年4月頃、コーナーが昭南博物館の館長となった田中舘秀三の下で(敵性外国人として収容所に送られることなく)博物館の管理にあたっていたところ、田中館の私設秘書・家政婦として働いていた中立国・スイスのアルベンツ領事夫人の密告を受けて篠崎がコーナーを逮捕しに来たことがあり、日本軍の占領期間中に篠崎が博物館にやって来たのはその時だけだった[41]
  • スマトラ出身で、マレー人厚生協会の委員をしていたM.ガウスは、1943年の中頃の某日、昭南特別市の厚生課長として民族別の厚生協会を監督していた篠崎に呼び出されてマレー人厚生協会の他の委員も出席した会合に出席してみると、それはガウスを批判するために開かれた会合で、席上篠崎から「ガウスのマレー文化とインドネシア文化が同源であるとの主張がマレー人社会に分裂を生じさせており、戦争継続中であるからマレー人社会の一致団結に協力するように」と怒気に満ちた口調で要請され、いわれのない非難を受けて当惑した、としている[42]
  • 篠崎 (1976, p. 101)によると、戦時中、華僑協会でエンダウへの中国系住民の「疎開」を提案したとき、「インテリ華僑」は篠崎のことを『孫大話、篠大話』(孫文の大ボラ、篠崎の大ボラ)と皮肉ったとされ、篠崎は仇名の出所を孫文と親交のあった 林文慶博士ではないか、としながら、「私は華僑の反応が愉快であった」と回想している。
  • 篠崎は自著の中で、戦時中に連合国人や中国系住民に友好的に接したことを日本軍の某参謀から「利敵行為だ」と批判され、また戦後シンガポールに進駐した英軍保安隊に通訳として協力し、イギリス軍による戦犯裁判に検察側証人として出廷するなどしたことから、シンガポールに抑留されていた日本人から「英軍に寝返った」と疑いの目で見られたが、前者はあくまで人道主義に根差したもので、後者は英軍の戦犯調査班に引き渡す前に日本人の戦犯や軍政関係者を逃がすことが目的だった、としてこれを否定している[43]
  • 日本の占領期間中に昭南憲兵隊特別警察隊(特警隊)に所属していた中山三男と石部藤四郎は、戦後に行われたインタビューの中で、戦時中、第5師団第11連隊が行ったイロンロン(ジュルンドン)村の粛清工作について、同村に共産党ゲリラがいるとの情報がライ・テクから提供された、という話の出所が、戦後、特警隊の山口・下村両隊員が英軍保安隊の取り調べを受けて共産ゲリラ対策について詳しく自供した際に通訳をしていた篠崎であることについて、「(石部:)篠崎もまたいい加減な男じゃ。わしも何回もつきあいしてんねんじゃがね。あれもその場その場で、なかなかファジイな男なんだよ。そういうこともまた全面的に100パーセント信用できないと思う。(…)俺は、ライテクの情報によって、イロンロン村のあの情報が5師団の11連隊に伝わったとは、考えられんわ。(中山:)自分らは考えられんですわ。」と述べている[44][45]

著作物・インタビュー記録

著書

  • 篠崎, 『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。
    • 英語: Shinozaki, Mamoru『Syonan - My Story - The Japanese Occupation of Singapore』Asia Pacific Press、Singapore、1975年。
    • 篠崎, 著、陳加昌 訳『新加坡淪陥三年半』泛亜出版社、Singapore、1973年。

インタビュー記録

  • 篠崎, 著「篠崎護氏インタヴュー記録」、東京大学教養学部国際関係論研究室 編『インタヴュー記録 D.日本の軍政』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、169-213頁。
  • 英語: Shinozaki, Mamoru 著、Yoon Lin Lim 訳『My Wartime Experiences in Singapore』Institute of Southeast Asian Studies、Singapore、1973年。

雑誌記事

  • -(著)、日本保安用品協会(編)「西欧紀行を読んで・・・・」『セイフティダイジェスト』第29巻第3号、1983年3月、19-21頁、NDLJP:3217095
  • -(著)、現代史懇話会(編)「シンガポール・その苦闘と繁栄」『史』第47巻、1981年12月、22-29頁、NDLJP:7925924
  • -(著)、現代史懇話会(編)「大東亜戦争と華僑(2)‐ある特務機関長の脱走‐」『史』第45巻、1981年4月、50-54頁、NDLJP:7925922
  • -(著)、現代史懇話会(編)「大東亜戦争と華僑(1)‐林文慶博士‐」『史』第42巻、1980年5月、54-57頁、NDLJP:7925919
  • -(著)、現代史懇話会(編)「シンガポール物語」『史』第41巻、1979年12月、32-34頁、NDLJP:7925918
  • -(著)、現代史懇話会(編)「シンガポールの戦火(続)‐ある中国人の生と死‐」『史』第40巻、1979年8月、37-44頁、NDLJP:7925917
  • -(著)、現代史懇話会(編)「シンガポールの戦火‐ある中国人の生と死‐」『史』第39巻、1979年4月、29-37頁、NDLJP:7925916
  • -(著)、現代史懇話会(編)「友情の中の3人」『史』第38巻、1978年12月、17-24頁、NDLJP:7925915
  • -(著)、現代史懇話会(編)「西村中将の責任感‐戦犯裁判の陰に‐」『史』第36巻、1978年4月、48-53頁、NDLJP:7925913
  • -(著)、現代史懇話会(編)「回想のチャンドラ・ボース」『史』第34巻、1977年9月、16-20頁、NDLJP:7925911
  • -(著)、日本保安用品協会(編)「シドニー特攻隊後日譚‐新嘉坡に散華した英豪10勇士」『セイフティダイジェスト』第21巻第8号、1975年8月、22-27頁、NDLJP:3217004
  • -「日本占領時期死難人民記念碑」『「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み』、シンガポール日本人会、1978年3月、80-82頁。(初出は『南十字星』1975年5月号)
  • -「南洋進出の百年‐シンガポール邦人略史」『「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み』、シンガポール日本人会、1978年3月、43-56頁。(初出は『南十字星』1974年7月号~1975年4月号)
  • -「シンガポール占領と『昭南』時代‐私の戦中史‐」『「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み』、シンガポール日本人会、1978年3月、57-79頁。(初出は『南十字星』1972年7・8月号~1974年3・4月号)
  • -「昭南特別市 シンガポール 1940-47年‐二百名を超す戦犯処刑」『諸君!』第6巻第12号、文藝春秋、1974年12月、148-164頁、NDLJP:3368480
  • -「シンガポール 1940-47年‐昭南特別市の崩壊」『諸君!』第6巻第11号、文藝春秋、1974年11月、200-214頁、NDLJP:3368479
  • -「昭南特別市 シンガポール 1940-47年‐市民の疎開そして敗戦」『諸君!』第6巻第10号、文藝春秋、1974年10月、146-161頁、NDLJP:3368478
  • -「昭南特別市 シンガポール 1940-47年‐五千万弗強制献金事件」『諸君!』第6巻第9号、文藝春秋、1974年9月、122-136頁、NDLJP:3368477
  • -「昭南特別市 シンガポール 1940-47年‐華僑協会設立の真相」『諸君!』第6巻第8号、文藝春秋、1974年8月、196-209頁、NDLJP:3368476
  • -「現代史の秘録 昭南特別市 シンガポール 1940-47年」『諸君!』第6巻第7号、文藝春秋、1974年7月、144-159頁、NDLJP:3368475
  • -「獄窓に見るシ港陥落」『農村文化』第21巻第3号、農山漁村文化協会、1942年3月、22-23頁、NDLJP:2332873
  • -「チャンギー監獄脱出記」『改造』第24巻9・10、改造社、1942年。

新聞連載

関連メディア

脚注

  1. この記事の主な出典は、茶園 (1995, pp. 26–27)原 (1987, pp. 90–92)Bridges (1986)篠崎 (1981)篠崎 (1978b)田中 (1976, p. 237)および篠崎 (1976)
  2. Bridges (1986, p. 24)Shinozaki (1973, pp. 1–2)のインタビュー記録からの引用として。
  3. 田中 1976, p. 237.
  4. Bridges (1986, p. 24)Shinozaki (1973, pp. 1–2)のインタビュー記録からの引用として。同書では、1931年に大学を卒業した、としている
  5. 篠崎 1976, p. 奥付.
  6. 篠崎 & 1974-07, p. 145.
  7. Bridges (1986, p. 24)では、日本大使館の報道補佐官(assistant press attache')として任務を与えられた、としている。
  8. The Straits Times & 1940-11-21およびThe Straits Times & 1940-10-27によると、1940年9月に英海峡植民地特別警察が在シンガポール日本総領事館の建物内にあった篠崎の部屋を捜索した際に、1936年12月20日付で外務省の嘱託に任命された旨を記した証書が見つかっている。
  9. ベルリン駐在時代の体験については、篠崎 (1983, p. 96)に若干の叙述がある。
  10. ベルリン在勤中に、同時期駐在武官として在勤していた馬奈木敬信と面識を得た(篠崎 & 1974-08, p. 197)。
  11. 篠崎 (1981, pp. 171–172)では同年8月としている
  12. 篠崎 1978e, p. 24.
  13. The Straits Times & 1940-10-27.
  14. Bridges 1986, p. 24.
  15. The Straits Times & 1940-08-05.
  16. 篠崎 1981, pp. 171–172.
  17. 篠崎 1981, pp. 173–176.
  18. Bridges 1986, pp. 26–28.
  19. 篠崎 1976, pp. 1–22.
  20. The Straits Times & 1940-09-22.
  21. 篠崎 1978b, p. 66.
  22. Bridges 1986, p. 32.
  23. 篠崎 1976, pp. 34–70.
  24. 原 1987, pp. 90–92.
  25. 篠崎 1976, pp. 51–70.
  26. Bridges 1986, p. 33.
  27. 篠崎 1976, pp. 71–86.
  28. 篠崎 1976, pp. 87–88.
  29. 篠崎 1976, p. 86.
  30. 篠崎 1981, pp. 201–202.
  31. 茶園 1995, pp. 26–27.
  32. 篠崎 1976, pp. 33–49, 51–60, 176–179.
  33. フォーラム 1998, p. 677.
  34. ナショナリズム、言語、歴史:シンガポールにおける「書く」ことのポリティクス”. 独立行政法人国際交流基金. 2016年9月20日閲覧。
  35. 篠崎 1976, pp. 177–178.
  36. 篠崎 1976, pp. 33–49, 51–60.
  37. 河村 参郎『十三階段を上る』亜東書房、1952年4月20日、76頁。
  38. サイレンバーグ 1988, p. 78.
  39. リー 2007, pp. 123–124.
  40. 井伏 1998, pp. 393–394.
  41. アルベンツ夫人は、憲兵隊にコーナーを逮捕させようとしたが、その場に居合わせた田中館が篠崎に同行して事情を説明しに行き、事なきを得た(コーナー 1982, pp. 102–103)。
  42. ガウス 2012, p. 85-86,88-91.
  43. 篠崎 1978b, p. 77.
  44. フォーラム 1998, pp. 473–474.
  45. 山口と下村は戦犯裁判により処刑されている(篠崎 1978b, pp. 77–78)。
  46. 読売新聞 & 1981-07-29.
  47. 篠崎 (1983, p. 95)の筆者紹介では、(篠崎 1976ではなく)篠崎 (1975)が取り上げられた、としている。
  48. 原 1987, p. 92.

参考文献

  • 篠崎の著作物・インタビュー記録については著作物・インタビュー記録を参照。
  • ガウス, マフユディン 著、後藤乾一 訳「5 シンガポールにおける日本占領と私の体験」『M.ガウス回想録‐戦前期インドネシア留学生の日本体験‐』(pdf)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2012年、78-100頁https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/38104/6/KenkyuShiryoShirizu_3_Dai5Sho.pdf2016年7月9日閲覧
  • リー, ギョク・ボイ 著、越田稜 訳、シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ 編『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半』凱風社、2007年1月。ISBN 9784773631029。
  • 井伏, 鱒二「徴用中のこと」『井伏鱒二全集』 26巻、筑摩書房、1998年10月、323-410頁。ISBN 9784480703569。
  • フォーラム 著、「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム 編『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 : 1941~45年 : インタビュー記録』 33巻、龍溪書舎〈南方軍政関係史料〉、1998年。ISBN 4844794809。
  • 茶園, 義男 著、茶園義男 編『シンガポール英軍法廷・華僑虐殺事件起訴詳報』不二出版、1995年。
  • サイレンバーグ, ジョン・バートラム・グァン『思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々』幻想社、1988年。ISBN 4874680550。
  • 原, 不二夫「シンガポール日本軍政の実像を追って」『アジア経済』、アジア経済研究所、1987年4月、83-95頁。
  • Bridges, Brian (1986-1). “Britain and Japanese Espionage in Pre-War Malaya: The Shinozaki Case”. Journal of Contemporary History 21 (1): 23-35.
  • コーナー, E.J.H. 著、石井美樹子 訳『思い出の昭南博物館』中央公論社〈中公新書〉、1982年。
  • 読売新聞 (1981年7月29日). “秘話・オーストラリア特攻隊で日豪初の合作映画「南十字星」‐捕虜と通訳の友情”. 読売新聞 夕刊: p. 映像 9
  • 田中, 『アジア人との出会い‐国際交流とは何か』田畑書店、1976年3月25日。
  • The Straits Times (1940年11月21日). “POLICE EVIDENCE AT SHINOZAKI TRIAL”. The Straits Times: p. 11. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19401121-1.1.11.aspx 2016年6月19日閲覧。
  • The Straits Times (1940年10月27日). “Secrets Case: Police Officer On Search Of Rooms In Consulate”. The Straits Times: p. 8. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19401027-1.1.8.aspx 2016年5月26日閲覧。
  • The Straits Times (1940年9月22日). “Singapore Japanese Released”. The Straits Times: p. 9. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19400922-1.1.9.aspx 2016年5月1日閲覧。
  • The Straits Times (1940年8月5日). “JAPANESE DETAIINED IN SINGAPORE”. The Straits Times: p. 8. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19400805-1.1.8.aspx 2016年5月1日閲覧。
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