薛孤延

薛孤 延(せつこ えん、生没年不詳)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫代郡[1][2][3]

経歴

韓楼が乱を起こすと、その麾下に属した。後に王懐らとともに韓楼を討つ計画を立てたが、韓楼の部将の乙弗醜に知られたため、奮戦して乙弗醜を破り、北魏に帰順した。行台の劉貴の推薦で都督となり、征虜将軍の号を加えられ、永固県侯の爵位を受けた。後に高歓に属して都督となり、その起兵に従った。高歓の下で爾朱兆を広阿で破り、を平定すると、功績により薛孤延の爵位はに進み、大都督に転じた。中興2年(532年)、高歓が韓陵の戦いで爾朱氏を破ると、薛孤延は金紫光禄大夫の位を加えられた。永熙2年(533年)、赤谼嶺で爾朱兆を追撃して、第一領民酋長となった[1][4][3]

天平元年(534年)、東魏が建国されると、薛孤延は顕州刺史に任じられ、車騎将軍の号を加えられた。天平4年(537年)、高歓の下で西魏を攻撃した。蒲津にいたって、竇泰が敗戦したので、高歓は撤退を決定した。薛孤延は殿軍をつとめて、戦いながら退き、1日のうちに15口も刀を折る奮戦ぶりであった。帰還すると、梁州刺史に転じた。興和4年(542年)、玉壁の戦いに参加し、恒州刺史に転じた。武定元年(543年)、邙山の戦いに参加して宇文泰を破り、爵位は県公に進んだ。武定2年(544年)、高歓の下で山胡を撃破した。武定4年(546年)、西魏の玉壁を攻撃した。入朝して左衆将軍となり、平秦郡公に改封された[5][6][3]

武定6年(548年)、薛孤延は左廂大都督となり、東魏の諸軍とともに潁州を攻撃した。土山の建造を監督していたが、酒に酔っていたところを西魏軍に襲われる失態を犯した。武定7年(549年)、潁州が平定されると、諸将とともに鄴に帰り、華林園で宴会した。高澄は薛孤延を階下に座らせて孝静帝を辱めた。後に薛孤延は領軍将軍を兼ね、滄州刺史として出向し、温県男の別封を受けた[7][6][3]

天保元年(550年)、北斉が建国されると、薛孤延は都昌県公の別封を受けた。酒を好んで、酔っていることが多かった。しかし大軍で出兵するさいには、いつも先鋒をつとめ、韓軌潘楽らと同列に扱われた。天保2年(551年)、太子太保となり、太子太傅に転じた。天保8年(557年)、肆州刺史に任じられ、開府儀同三司の位を加えられた。洛陽郡を食邑とし、まもなく河間郡を食邑とするよう改められた[7][6][8]乾明元年(560年)、常山王高演の命により鄭頤を尚薬局に捕らえた[9][10][11]

脚注

  1. 氣賀澤 2021, p. 260.
  2. 北斉書 1972, p. 255.
  3. 北史 1974, p. 1911.
  4. 北斉書 1972, pp. 255–256.
  5. 氣賀澤 2021, pp. 260–261.
  6. 北斉書 1972, p. 256.
  7. 氣賀澤 2021, p. 261.
  8. 北史 1974, pp. 1911–1912.
  9. 氣賀澤 2021, p. 442.
  10. 北斉書 1972, p. 458.
  11. 北史 1974, p. 1505.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
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