藤原輔尹
経歴
文章生から文章得業生を経て、花山朝初頭の永観2年(984年)大学助の官職にあった。
一条朝前期に蔵人式部丞に補される一方で、藤原道兼の家人も務める。正暦4年(993年)道兼から命ぜられて、右近衛大将の辞任を請う文書を輔尹が上表した。六位の官人が上表を行うことは異例として藤原行成から咎められると、輔尹は「道兼には然るべき子息や婿がいないため、家人である輔尹が上表差し上げた」旨を回答している[1]。
長徳の変を経て藤原道長執政期に入ると、長徳4年(998年)ごろ伊賀守として受領となる。のち、長保3年(1001年)右少弁、寛弘元年(1004年)左少弁と10年ほどに亘って弁官を務めた。
寛弘6年(1009年)にはかつて父の興方も務めた大和守に任ぜられ、再び受領に転じる。長和元年(1012年)国司の任期満了を控え、大和国の百姓が輔尹の任期延長を訴え出るが、延長は認められなかった[2]。
官歴
脚注
- 『権記』正暦4年閏10月26日条
- 『御堂関白記』長和元年9月22日条
- 『勅撰作者部類』
- 20世紀日本人名事典. “藤原輔尹とは”. コトバンク. 2023年12月12日閲覧。
- 『尊卑分脈』
- 『祭主輔親集』
- 『輔尹集』
- 『権記』
- 『権記』寛弘元年12月13日条
- 『弁官補任』
- 『平安遺文』467
- 『小右記』
参考文献
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