藤川為親
経歴
佐賀藩士・藤川広次の二男として生まれる。幼くして父を亡くした。その後、藩の学校会計吏、監察兼軍艦会計吏を務めた。戊辰戦争では東上する藩兵の隊長として従軍[2]。
慶応4年(1868年)8月、下野国真岡判県事に就任。明治2年(1869年)7月、日光県大参事となる。その後、新川県権参事、栃木県参事、兼宇都宮県参事を歴任し、1877年1月、栃木県大書記官に就任[1][3]。
1880年10月、前任の鍋島幹の推薦で栃木県令に就任。自由民権運動が盛んとなる中、全国に先駆けて戸長公選を廃止した。一方、県会と対立があっても原案執行を行わず「平和主義の男」と呼ばれた。1880年、足尾銅山の鉱毒被害が表面化し、「渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ず」との達しを出した[3][4]。
脚注
- 『明治過去帳』新訂初版、209頁。
- 『明治百傑伝』259-262頁。
- 『栃木県歴史人物事典』517頁。
- 『新編日本の歴代知事』260頁。
- 『新編日本の歴代知事』779頁。
参考文献
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