野坂寛治
野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日 - 1965年(昭和40年)4月1日)は、日本の政治家。米子市長、境町長、鳥取県会議員。米子市名誉市民。
| 野坂 寛治 | |
|---|---|
![]() 野坂寛治(青年の頃) | |
| 生年月日 | 1889年5月2日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1965年4月1日(75歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 早稲田大学中退 |
| 前職 |
呉服商 山陰日日新聞支配人 |
| 所属政党 | 民政党 |
| 称号 | 米子市名誉市民 |
| 配偶者 | 妻・野坂のぶ |
| 親族 | 父・野坂茂三郎(衆議院議員) |
| 在任期間 | 1931年9月 - 1947年4月 |
| 在任期間 | 1934年3月 - 1935年9月 |
| 在任期間 | 1945年11月 - 1963年4月 |
経歴
人物像
交友関係
安田光昭(元米子市教育長)著『「あの人この人」私の交友録』によると、
- 「米子法勝寺町の老舗野坂呉服店の総領として生まれ育った寛治旦那は江戸に遊学して早稲田に籍を置いたけど、まことに気ままな青春時代を歩み出し、どうした弾みか漫画の泰斗岡本一平先生の門に出入りするようになり、奥さんの岡本かの子さんにも目をかけられて、家族同様の扱いを受けたらしい。この岡本家の一人息子がご承知の、大阪千里山で開かれた万博に、大変かわったシンボルタワーを作ったアブストラクトの画家岡本太郎さんである。
- (中略)さて岡本の太郎さんだが、昭和何年ごろか記憶がシャンとしないけど、出雲の国に旅をした帰りだといってヒョッコリ米子へやって来て、野坂のおじさんとしばらくぶりに語りたいという。“ヤッちゃんお前も付き合わさいやい”と皆生のひさご家で晩めしということになった。
- 岡本太郎という人は、独身主義だと聞いていたが、チョッとした婦人が一人付き添って、離れようとはしないので“ありゃ何でしょう”と市長に言うと“詮索無用”と一喝され、あれなら私も独身通せば良かったと思った。太郎さんは市長を市長さんとも野坂さんとも言わず“小父さん、小父さん”と呼びながら、おやじさんの追憶談に花を咲かせていたが、御母堂かの子さんの話となると、まゆに八の字寄せたようになる。“失礼ながら太郎さんよ、かの子夫人はお父さんも、ずいぶん持て余されたように見受けたな。あれが正に悪妻というものであろう”ひどい事をじいさん言うと思ったところ、令息岡本太郎さんが“子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました”そういう述懐を聞くにおよび、巷間いささかその性格が、尋常ではないなどといわれる岡本画伯の生い立ちを、チラリとのぞき得たような感がした。」という。
家族・親族
野坂家
- 家系
- 米子で蠟油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、油屋(野坂)などが有名であった[6]。
- 1861年(文久元年)2月生 - 1923年(大正12年)5月没
- 父茂三郎は、明治期における米子商人を代表するひとりだが、商売で才腕をふるう一方道楽に凝り、政治や事業に私財を投じた[9]。1891年(明治24年)米子商工会議所が設立されると副会頭に就任、初代坂口平兵衛などと組んで各種事業の近代化に画策した[9]。1896年(明治29年)9月郡会議員に選出され、1898年(明治31年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した[10][11]。
- 『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) のノ十によると、「君は鳥取縣の人にして油屋と稱し人参製造代辧業兼呉服太物商を營み方今株式會社米子銀行及び同中國貯蓄銀行取締役、同米子米綿取引所理事等の任に在り(所六六圓餘、營一三七圓餘伯耆國西伯郡米子町法勝寺町)」。
- 野坂寛治によると、「ころは明治三十一年、衆議院総選挙に父が立候補して、美事かどうかわからぬがともかく当選した[12]。所属政党は政友会の前身自由党であった[12]。拙宅の記録によると買収も併せておよそ三千余百円を要し、更に私事に渡るが、その費用を祖父が出さないので、外祖父の村上常三翁が祖父から借金して、それを聟の父に回してやる実に美しい間柄で、その金が倅の選挙費であることを百も承知の上で、父に当らず母に当り散らしたから、時々母はチクチク皮肉られる祖父の言葉に、目を泣きはらしたのを何の事やら知らずに、祖父は変な奴と思った事も一再でなかった[12]。とにかく祖父の野暮に比べて、外祖父は鹿島家の出である故もあって風雅人であり、特に村上に行く度にうまい菓子をくれた嬉しさは、七十近くになってなお忘れぬ[12]。」という[12]。
- 弟
村上家
- 家系
- 村上氏の尾高町居住はいつごろからであるかよく分からない[17]。新小路に藍製座が開設され、藩の産物方は村上安右衛門を藍製座の元方に任命しているから、そのころ現地に居を構えて、元方のことに当たったようである[17]。明治初年尾高町表通りに移り、書籍、文房具などの商いをした[17]。米子で最初の郵便局(駅逓行局)を引き受けたのが明治7年(1874年)である[17]。
- 1899年(明治22年に西倉吉町に郵便局が開設されるまで村上氏が郵便事務を続け、明治中期以後は、営業も活版印刷、銀行代理店、度量衡店、茶、茶道具店と変わった[17]。村上家は近世以来学問、文学への素養があり、幕末期には遠近の文人墨客の来游者と交歓を重ねた[17]。
- 村上家は、昔ながらの家柄で、家号は大屋、家業は書籍・筆・墨の販売から活版印刷・度量衡と割合に進んだ商売をした[18]。元祖・新左衛門は一言一言に“けれども、けれども”というので、“けれどもじいさん”という愛称だった[19]。祖父寧静院常三は鹿島家[20]の出であるため、風雅人であり、第二代米子町長三好八次郎とは特に親交が深かった[19]。
- かつの伯母は、第五代米子町長杵村源次郎(号小雅)の妻[21]。杵村について、野坂によれば、「杵村町長は、学に凝って立派な分家の家産を傾け、漢詩に委(くわ)しく唐聖人が撫したアノ琴に堪能で、書に秀でていた。」という[22]。
- 斎治郎叔父は道楽が強くて、文化事業を担当して分家し、その業を三度位つぶしたから、度毎に活版所の叔父さん、茶店の叔父さんと呼称をかえて可愛がられ、八十年の安楽な生涯であった[21]。
- 龔三叔父は松江の松本家を継ぎ、山陰貯蓄銀行頭取、松江市会議長などをつとめた[21]。
- 医療法人同愛会・博愛病院理事長村上一平は従兄常三の息子である。
- 評価
史料
1902年(明治35年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町の地価1万円以上の大地主をみる。彼等は当時の経済的実力者で、その多くは、質屋を営み、銀行に投資し、商業に従事し、あるいは各種会社の役員を兼ねるなど多面的な経済活動をしていた。初代坂口平兵衛(七万二千八百一円)を筆頭に、三好栄太郎(五万六千二百六円)、名島嘉吉郎(四万七千六百七十七円)、益尾吉太郎(四万七千七百五十四円)、松村吉太郎(三万六千百四十六円)、木村吉兵衛(二万四千五百九十六円)が続き、第7位に野坂茂三郎(一万五千七十八円)がある。次に『郡勢一斑』から見積り所得額三千円以上の人々の名を掲げる。年度は1915年(大正4年)である。坂口平兵衛 (初代)(三万四千五百五十九円)、名島嘉吉郎(二万千九百二十八円)、三好栄次郎(一万二千五百十四円)、第4位に野坂茂三郎(一万二千二円)がある。[24]
著書
- 『米子界隈』 1969年。
脚注
- 野坂康夫の祖母と野坂寛治はいとこの関係にある(野坂康夫 経歴(私が歩んだ道)…「米子市ホームページ」)
- 『鳥取県百傑伝』421頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』127頁
- 『米子界隈』(著者紹介)
- 『鳥取県百傑伝』422頁
- 『米子商業史』 23頁
- 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二〇
- 『島根鳥取名士列伝、上』七十八
- 『勝田ヶ丘の人物誌』 128頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』 129頁
- 鳥取県全体では第一区から石谷伝四郎、第二区から西谷金蔵が当選した。しかし同年8月第6回選挙が行われ、彼に代わって門脇重雄(維新政府で神祇少輔、教部大丞等を歴任した門脇重綾の二男)が当選したから代議士生活も束の間の喜びに終わった(『勝田ヶ丘の人物誌』129頁)
- 野坂寛治著『米子界隈』294頁
- 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二一
- 『勝田ヶ丘の人物誌』 325頁
- 野坂寛治著『米子界隈』168頁
- 野坂寛治著『米子界隈』169頁
- 『米子商業史』411頁
- 野坂寛治著『米子界隈』200頁
- 野坂寛治著『米子界隈』201頁
- 鹿島家は江戸時代中期以降、米子の代表的な豪商だった。初代の常吉が岡山から米子に移り住んだ。小売業や米商売、醤油屋などで財を築いた。
- 野坂寛治著『米子界隈』202頁
- 野坂寛治著『米子界隈』283頁
- 野坂寛治著『米子界隈』204頁
- 『米子商業史』118、165頁
参考文献
- 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 ネ・ノ215頁
- 『鳥取県百傑伝』 1970年 421-426頁
- 安田光昭 『「あの人この人」 私の交友録』 1980年
- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 127-132頁)
外部リンク
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