野田孝
経歴
山梨県竜王町(現在の甲斐市)出身[1]。1920年に甲府中学校を卒業後、旧制第一高等学校を目指して浪人していた。しかし、同年に同郷の小林一三に「(浪人してまで高校・大学に進学するより)早いとこ、実務についた方が良い」と勧められて、阪神急行電鉄に入社した[1]。結婚まで小林一三の自宅に下宿し、結婚後も隣に自宅を構えていた[2]。
1947年2月に京阪神急行電鉄(阪急電鉄)から分離した阪急百貨店の常務に就任し、専務を経て、1957年11月に社長に就任[1]。清水雅が東宝の社長に就任したことによる。社長在任時には、日本一の食品売場を梅田本店に作るなど、阪急百貨店を高収益体質にした。24年近く社長を務めた後、1981年から会長を務めた[3]。
日本百貨店協会会長を1962年から、1970年から、1980年からの3度にわたって務めた[1]。2度目は8年前にやったばかりだと断ろうとしたが、3度目は断ることを諦めてしまった。3度目の協会長時代は岡田茂による三越事件で、三越が一方的に同業他社との対立を深めたことに頭を悩ませた[2]。
脚注
- 人事興信所 1979, の24頁.
- “第十九代日本百貨店協会長に就任した 野田孝_ひと”. 朝日新聞 (朝日新聞東京本社): p. 3. (1980年6月15日)
- 1981年 5月19日 日本経済新聞 朝刊 p9
- 1984年 9月24日 日本経済新聞 朝刊 p23
- 50年史編集委員会『株式会社阪急百貨店50年史』阪急百貨店、1998年4月。
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