釘宮辰生
釘宮 辰生(くぎみや ときお[1]、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。
釘宮 辰生 | |
|---|---|
![]() 日本メソジスト教会監督時代 | |
| 生誕 |
1872年4月20日 |
| 死没 |
1947年9月13日(75歳没) |
| 国籍 |
|
| 出身校 | 大分尋常中学校、関西学院神学部 |
| 職業 | 牧師・教育者・教会監督 |
生涯
初期
大分県北海部郡海添村内畑に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。
明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。釘宮家は貧しかったが、母は辰生の願いを聞いて入学させた。しかし、経済的に困窮して、2年で退学した。
キリスト教入信
1887年(明治20年)に中学中退後、裁判所に就職した。この時、大分中学の英語の教師のS・H・ウェンライトに出会う。[2]友人の柳原直人に誘われていった教会で聖書に出会い、入信した。1887年に、柳原浪夫、久留島武彦らと共に洗礼を受けた。1888年(明治21年)には大分美以教会(日本基督教団大分教会)が設立された。
1889年(明治22年)大晦日に大分美以教会でW・R・ランバス宣教師らと除夜祈祷会で祈っていると一同が聖霊体験をする。これが後に言われる「大分リバイバル」である。
脚注
- 関西学院の公式サイトより「たつお」ではなく「ときお」という読み方が正しい。関西学院大学の公式サイト
- ウェンライトは公立学校の教師として来日したが、後にメソジストの宣教師になり、教文館の主幹になる。『日本キリスト教史大事典』
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