陳 (南朝)
歴史
建国期
南朝梁の重臣であった陳霸先は侯景の乱で王僧弁と共に鎮圧の功績を立てたが、後に王僧弁との対立が表面化し555年9月に陳霸先は王僧弁を建康で殺害し、蕭方智を敬帝として即位させた[1]。陳霸先は梁の実権を掌握し、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、ここに梁は滅亡した[1]。陳霸先は武帝として即位し、永定と建元した。しかし、この即位前から梁末の混乱により、益州は北周に奪われており、また梁から梁の皇族が北周へ亡命して後梁(西梁)が梁から分裂して成立しており、その西梁は江陵を拠点として独自の政権を継続させていた。さらに梁の残党も郢州を拠点として梁の復興をはかっていた。こうした事情から、陳の領土は元の梁の全てを継承したわけではなかった。
国名の陳は陳霸先が梁から陳王に封ぜられたことに由来する。
安定期
559年に武帝は崩御し、第2代皇帝には甥の文帝が即位した。文帝は北斉の侵攻を撃退し、王僧弁の勢力を再結集していた長江中流の湘州の王琳が永嘉王蕭荘を皇帝としていた梁を滅亡させ、さらに臨川の周迪・豫章の熊曇朗・東陽の留異・建安の陳宝応など国内各地における反乱を鎮圧し[2]、国政に尽力して内治を安定させ、減税と節倹に努めて人心を掌握して陳を安定させた。
566年に文帝は崩御し、長男で皇太子だった陳伯宗が即位するが、568年に叔父の陳頊に廃され、第4代皇帝には陳頊が宣帝として即位した。宣帝は節倹と減税など民政に励む一方で軍事力を増強し、北斉の弱体化に乗じてこれを攻め江北の地を奪取した[2]。しかし578年に北斉を滅ぼした北周に敗れ、江北を奪い返されてしまった。
衰退・滅亡
582年に宣帝は崩御し、皇太子の陳叔宝が即位した。だが叔宝は相当な暗君で、貴妃張麗華と共に享楽に溺れ[3]、沈客卿・施文慶ら奸臣を重用して国政を乱し、遊興にふけって政務を顧みなかった。このため陳の国力は衰退の一途をたどり、588年から北周を滅ぼして成立していた隋の文帝が50万の大軍を南下させると、陳は抵抗しきれずに589年に叔宝は降伏して陳は滅亡した[3]。ここに400年に及ぶ魏晋南北朝時代が終結し、中国大陸は隋に支配されることになった[3]。
なお、叔宝は暗君だったことが逆に幸いして文帝に警戒されず生かされることになり、陳の皇族や官僚、おびただしい捕獲品と共に長安に送られた[3]。
社会
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