馮翊郡
僑置馮翊郡
南北朝時代、馮翊郡の本土が敵対する王朝の統治下にあったとき、僑郡の馮翊郡が置かれた。
雍州の馮翊郡
429年(南朝宋の元嘉6年)、馮翊郡が置かれた。はじめ襄陽に郡治が置かれ、後に鄀に移された。南朝宋の馮翊郡は雍州に属し、鄀・高陸の2県を管轄した[3]。南朝斉のとき、馮翊郡は鄀・蓮勺・高陸の3県を管轄した[4]。
隋の馮翊郡
487年(太和11年)[2]に北魏によって立てられた華州を前身とする。西魏のとき、華州は同州と改称された。
607年(大業3年)、隋により州が廃止されて郡が置かれると、同州は馮翊郡と改称された。馮翊郡は馮翊・韓城・郃陽・朝邑・澄城・蒲城・下邽・白水の8県を管轄した[5]。
618年(武徳元年)、唐により馮翊郡は同州と改められた。742年(天宝元年)、同州は馮翊郡と改称された。758年(乾元元年)、馮翊郡は同州と改称され、馮翊郡の呼称は姿を消した[6]。
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