高嶺城
高嶺城(こうのみねじょう)は、山口県山口市上宇野令字高嶺にあった日本の城(山城)。鴻の峰城・鴻之峯城とも記される。国の史跡に指定されている[1]。
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|---|---|
![]() 高嶺城跡(主郭付近) | |
| 別名 | 鴻の峰城、鴻之峯城 |
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 不明 |
| 築城主 | 大内義長、毛利元就 |
| 築城年 | 弘治2年(1556年) |
| 主な城主 |
大内義長、市川経好 柳沢元政、佐世元嘉 |
| 廃城年 | 寛永15年(1638年) |
| 遺構 | 石垣、郭、井戸 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 位置 | 北緯34度11分3.3秒 東経131度27分45.0秒 |
| 地図 |
![]() 高嶺城 |
概要


大内氏館の詰の城として整えられた標高338mの鴻ノ峰にある山城で、頂上部の主郭を中心に四方に延びる尾根へ郭を配している。主郭を中心に石垣が使用され、また礎石や瓦等も出土している。
鴻ノ峰の南方には、大内氏の居館である大内氏館と築山館があり、そして周囲の山々にも兄弟山城(おとどいやま)、障子ヶ岳城、古城ヶ岳城、七尾山城、姫山城等の大内氏の主要拠点[2]が点在する。その他、毛利氏によって築城された長山城(未完成のまま、現在は亀山公園[3]となっている)も近い。
昭和34年(1959年)に「大内氏遺跡 附:凌雲寺跡」として国の史跡に指定された。石垣等の遺構が良好に残っている。鴻ノ峰南麓の木戸神社や東麓の山口大神宮から登山道があるほか、城域の一角にあるテレビ・ラジオの放送中継局まで木戸神社前の車道が続いている[注釈 1]。
沿革
築城
高嶺城の築城を始めたのは、周防国・長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。
大内義長は、天文20年(1551年)の大寧寺の変の後に陶隆房(のち晴賢)らに迎えられて当主となったが、天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害し、大内氏の主力も壊滅的な被害を受けた。これに乗じて攻勢を加える石見国の吉見正頼や安芸国の毛利元就に備えるべく、高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。
しかし、毛利氏による攻勢(防長経略)は予想以上に早く、弘治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻した際には、大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなる。結局、大内義長や重臣の内藤隆世はこの城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなる。


