GHQ草案手交時の脅迫問題

GHQ草案手交時の脅迫問題(じーえっちきゅーそうあんしゅこうじのきょうはくもんだい)とは、1946年2月13日にGHQ草案(マッカーサー草案)が日本側に手交された時、GHQ民政局長のコートニー・ホイットニーが「この草案を呑まなければ、天皇を戦犯裁判にかける」といったような重大な脅迫をしてGHQ草案を押しつけた[注 1]、という事実があったかどうかに係る問題である。

松本烝治 幣原内閣で憲法担当の国務大臣を務めた

概説

1946年2月13日は、『日本国憲法成立史』の著者佐藤達夫が「この日こそは、“日本国憲法受胎の日”とも言うべき歴史的な日である」[1]と言っているように、日本国憲法にとり特別な日であった。というのは、2月13日は、日本政府の予期に反し、GHQ草案を手交される日になってしまったからである。本来この日は、2月8日に、日本政府が 連合国総司令部(GHQ)に渡しておいた「憲法改正要綱」(松本甲案)とその説明書の英訳への回答があるはずの日であった。

その日、GHQから回答を受けるため、外務大臣公邸に 吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官の4人が待機していた。そこへ、午前10時きっかりに、GHQ民政局長のホイットニー准将を先頭とする4人のアメリカ人-他にケーディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐-が訪れ、松本案への回答があるとばかり考えていた吉田ら4人に対し、ホイットニーは開口一番「日本案ハ全然受諾シ難キニ付自分ノ方ニテ案ヲ作成セリ」と述べ、GHQ草案を配ったのである[2]

その後、ホイットニーは日本側に検討する時間を与え、一読した松本は「貴案ハ我方ノ考ト余ニ懸離レ居ル為」「充分検討ノ上更ニ御相談致シ度シ」[3]と述べた。次いで、ホイットニーの説明が開始された。日本側の記録によれば、ホイットニーは、本案は日本側に押し付ける考えはないが、マッカーサー元帥が米国内部の反対を押し切り、天皇を擁護するためにこれならば大丈夫と思う案を作ったものであり、しかも日本民衆の意識にも合致したものだと述べた[4]。説明の後、松本は一つだけ質問したいと言い、通訳を介して[5]憲法案が一院制を定めているのは何か特別の理由があるかと尋ねた[6]。すると、ホイットニーから「日本には米国のように州がない。従って上院を認める必要はない」という返答があった。その理由の単純さに驚いた松本が、二院制の由来やチェック・アンド・バランスの意義をごく簡単に説明した。すると、アメリカ人たちは初めて知ったような顔で、「うんうんというような顔をしてみんなただ感服していた」[7]。松本はその様子にただ驚き、そして「こういう人のつくった憲法だったら大変だ」と思った[8]。一院制についてのやり取りのあと、更にホイットニーは、改正案はあくまでも日本側の発意に出たものとして発表されるのが望ましく、時期は総選挙前に発表するのが適当だと述べた[9]。会談は、GHQ側の記録によれば午前11時10分に[10]、日本側の記録によれば午前11時30分に[9]終了している。

この日の会談(以下「2・13会談」ということがある)の記録として、今日、日本側3、アメリカ側1の計4つの記録が知られている。日本側は松本烝治 「二月十三日会見記略」、白洲次郎「白洲次郎手記」[11]、長谷川元吉「二十一年二月十三日ノ日米会談録」[12]、アメリカ側は、ケーディス、ラウエル、ハッシーが連名で書きホイットニー宛てに報告した長いタイトルの記録[注 2]である。つまり、2・13会談の当事者8人のうち7人の手になる計4つの記録が知られている。吉田茂の記録だけは知られていない。しかし、後に高柳賢三をとおし証言を残している。これらの記録の内容は大きく矛盾しないが、松本の記録だけにあり、他の記録にはない記述がある。それがGHQ草案手交時に脅迫があった、という説の発端になっている。

以下に脅迫説の経緯を辿るが、その時注意しなければならないのは、松本の記録や証言は早期から広まった一方、それ以外の記録が世に出たのは、1946年のGHQ草案の手交から数えて、はるか後だったという事実である。アメリカ側の記録が翻訳公表されたのは、GHQ草案手交から20年後の1966年のことであった[13]。それが、一般書となって世に出るのは、26年後の1972年のことである[14]。また、白洲と長谷川の記録が外務省により公開されたのは、GHQ草案の手交から数えて30年後の1976年のことであった[15]

内容

松本烝治「二月十三日会見記略」

松本烝治の「二月十三日会見記略」は、松本が昭和21年3月3日までに執筆したものと考えられる[16]。この手記は、ホイットニーが話した内容を大きく4つに分けて記述しているが、脅迫説が生じたのはその中の項目「三」の箇所である。

「ホイットネー」少将等先方提案数部ヲ交付シ極メテ厳格ナル態度ヲ以テ宣言シテ曰ク 

一、日本政府ヨリ提示セラレタル憲法改正案ハ司令部ニトリテ承認スヘカラサルモノ(アンアクセタブル)ナリ 
二、此当方ノ提案ハ司令部ニモ米国ニモ又聯合国極東委員会ニモ、何レニモ承認セサルヘキモノナリ 
三、『マクアーサ』元帥ハ豫テヨリ天皇ノ保持ニ付深甚ノ考慮ヲ運ラシツツアリタルカ日本政府カ此ノ如キ憲法改正ヲ提示スルコトハ右ノ目的達成ノ為必要ナリ之ナクシテハ天皇ノ身体(パーソン、オブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス 

四、吾人ハ日本政府ニ対シ此ノ提示ノ如キ改正案ノ提示ヲ命スルモノニ非ス 最モ此ノ提案ト基本原理(ファンダメンタル、プリンシプルス)及根本形態(ベーシック、フォームス)ヲ一ニスル修正案ヲ速ニ作成提示セラレンコトヲ切望ス(以下略)「二月十三日会見記略」より

松本手記には、2月13日に手交されたGHQ草案の採用は、「右ノ目的」すなわち「天皇ノ保持」のため必要であり、さもなければ「天皇ノ身体」の保障は出来ない、と記録してある。日本政府は、ポツダム宣言を受諾する際も、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」[17]と天皇制維持のみを条件として受諾した経緯があり、「天皇ノ身体」に関わるこの記述の持つ意味はこの上なく重大であった。以下、「天皇ノ身体」発言とか「天皇ノ身体」問題とか言う時、それは上記松本手記の項目「三」の第2文「之ナクシテハ天皇ノ身体(パーソン、オブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」という記述を指している。なお、ホイットニーのものとされるこの発言は、2・13会談の他の立会者による裏付けがなく、もっぱら松本一人の記録である。1950年11月23日に採録された東京大学占領体制研究会への口述において、松本は「パーソン・オブ・エムペラーは保証できないというから・・聞こうと思ったところ、聞く必要もないので聞かなかったが、これは容易ならぬことだと思っておりました」[18]としている。

松本烝治から直接話を聞いた人々

幣原内閣の閣僚たち

松本はGHQ草案を受領した後、幣原喜重郎首相に報告し、協議した。そして、先方は「どうもあまり憲法というものは知らないのではないか。議院制度もわからないようなのだから、少し教えてやる方がいいのじゃないか。それで交渉したらどうであろうか」ということになった[19]。しかし、GHQの一院制は、日本政府との「取り引きの種として役に立つことがあるかも知れない」と戦略的にケーディスが入れたものであった[20]。松本はGHQサイドを憲法の素人であるとなめてかかっていた[注 3]。そこで、2月18日、GHQに再考を促すべく白洲を使者に立てて再説明書(「憲法改正案説明補充」)を提出したが、それを見て、これは前の説明書の単なる「繰り返し」にすぎないと大憤慨したホイットニーから、逆に、草案を受け入れるかどうかを20日までに返答するように迫られた[21]。そこで松本はやむなく、2月19日の閣議で事の次第を閣僚たちに初めて報告した。その模様を芦田均(厚生大臣)と入江俊郎(内閣法制局次長)の二人が記録している[22]

芦田均厚生大臣

1946年2月19日 憲法論議第一日 定例閣議が午前10時15分に開かれた。蒼ざめた松本烝治先生が発言を求めて、極めて重大な事件が起こったと言われた。松本さんは憲法改正案についてScap〔連合国軍最高司令官〕との交渉の顛末を詳しく報告したいと前提して大体次の通り話された。(略)先週の水曜日(13日)に外相官邸に於て先方の4名(Whitney,Hussey等)と会見した(吉田外相も同席して)。其席〔2・13会談のこと〕に於てWhitneyが発言して次の主旨を述べた。日本側の案は全然unacceptableである。依って別案をScapに於て作製した。この案は聯合国側でもMacArthurも承認した。尤もこの案〔GHQ草案〕を強制するといふには非ず。日本国民が真に要望する案なりと思ふ。MacArthurは日本天皇を支持するものであって、この案は天皇反対者から天皇のpersonを護る唯一の方法である。日本の憲法は左翼へ移行するのが良いのである。日本国民が政治意識を得るようになれば此案に到達するに違いない。日本はこれに依って初めて国際社会に進出することが出来るであろう(略)。『芦田均日記』[23]より

上記芦田日記に「天皇のperson」という記述がある。しかし、それは後年大問題となる松本手記の「之ナクシテハ天皇ノ身体(パーソン、オブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」という趣旨の報告ではなく、逆に「天皇反対者から天皇のpersonを護る唯一の方法である」と記録されている。この記述は松本手記にはなく、白洲次郎の手記の第5項目から採っている。上記芦田日記の記述は、松本「二月十三日会見記略」と同様の内容も含むが、「白洲手記」そのものである。以下に「白洲手記」の全文を掲載する。

(一九四六年二月十三日付)

一、日本政府案ハ全然「アクセプタブル」ノモノデナイ

二、司令部ニテ案ヲ作成セリ

本案ハ聯合国ニモ司令部ニモ「アクセプタブル」ノモノナリ

三、本案ハ強制的ニ押シ付ケルモノニアラズ

四、本案ハ日本国民ノ要望スルモノト信ズ

五、司令部ハ 天皇ヲ支持シ来タリ、本案ハ 天皇制ヲ支持シ 天皇反対者連中ヨリ 天皇ヲ護ル唯一ノ方法ナリ

六、日本ノ保守派ノ人々ハウント左ニ行クコトガ良イノダ

七、日本ノ国民ガ政治意識ヲ得テクレバコノ案ヲ必要トスル

八、本案ハ原則ヲ示シタモノデ、形式内容ニ変更ノ余地アリ

九、本案ニ依テ日本ガ国際間ニ進出スル手段トナル「白洲次郎手記」[24]より

松本は、2・13会談の要点を閣議報告をするに当たり、自分より英語力が優れる白洲次郎の手記に頼ったものと推測される。

入江俊郎内閣法制局次長

入江は、初代法制局次長としてこの日の閣議に陪席した。従前、閣外から閣議に陪席できるのは、内閣書記官長法制局長官のみが原則であったが、戦後、内閣副書記官長と法制局次長の陪席が認められた[25]。入江は当時の様子をこう回想する。

昭和21年2月19日、火曜日の定例閣議の劈頭にあたって松本国務大臣は憲法改正に関して発言を求め、ここに驚くべき報告を行いました。(略)彼ら〔ホイットニーら〕のいうには「松本案は司令部としてアプルーブできない。それゆえ今交付するこの案を重要な参考として立案してほしい。この案は司令部で立案し、マッカーサーも承認したものである」と言って、マッカーサーよりの憲法改正案の交付があったのであります。そして彼らはつけ加えて「この案は決して日本側に強制するものではないが、これを日本側が承認できるかどうか、来る20日までに返事をせられたい」ということであった、と述べ、ここで先方の案の大要を、口頭で紹介されたのであります。(略)そして若しこの案を日本側が拒否するなら、エムペラーのパーソンについても重大な変更をしなければならなくなるのではないかと述べた。(註、この「エムペラーのパーソン」といったホイットニーの言葉は、強く松本氏の胸を打って、あとまでも忘れがたく、ひどく印象的であったと松本氏は入江にも語り、また他の場所でも言っておられた。)(以下略) 昭和21年2月19日における松本国務大臣の重大発言[26]より

この入江の口述は、東京大学占領体制研究会が、1954年6、7月の4回に渡り採録したものである[27]

この日の閣議では、GHQ草案受け入れ反対派と賛成派の二派に分かれた。反対派は幣原首相、三土忠造内相、岩田宙造法相、賛成派は芦田厚相、副島千八農相などであった[28]。松本がこの日閣議で報告するまで、GHQ草案手交とそれ以降の事情を知っていたのは、幣原と吉田だけで、他の閣僚達は知らされていなかった。閣議の結果、2月20日迄という司令部への回答を22日に延期してもらうことにし、21日に幣原首相がマッカーサーに会い話をすることになった[29]。しかし、閣僚たちは不満だらけであった。それは、閣議決定されてもいない[注 4]のに「いつの間にか松本案がそのまま内閣の確定した意見の如く進行してしまっているところへの不満の感情」と「このように驚くべき案が司令部から13日に交付されたというなら、それこそ即刻閣僚に意見を聞き、その上で速かに司令部へ説明なり反駁なりをすべきであるのに、18日に松本国務大臣だけで追加説明を提出したことに非常に割切れないような気分」であった[30]

昭和天皇

1946年2月13日、日本側に手交されたGHQ草案は、日本側により3月2日案として起草された。起草責任者は、皮肉にも松本であった。3月2日案は、3月4-5日の「徹宵交渉」を経て、3月5日に閣議決定された(3月5日案)。閣議決定後、幣原首相と松本は参内し、昭和天皇に事の経緯を奏上した。松本の奏上の様子を侍従次長木下道雄は次のように記している。

3月5日(火) 半晴

夕刻、幣原首相、松本国相、拝謁。同時に内閣木内副書記官長来室。勅語案を持参す。事重大なり。よって、直ちに大臣、次官の登庁を求め、7時両人来室。更に退出の両大臣の来室を求め、事の詳細を聞く。(略)始めは11日までに松本私案を出せばよいことになっていた[注 5]が、かくなってはそれ迄待てぬ。米国側の造った原案を採用するか、しからざればEmperorのpersonの保障もできないと云う強談判。松本国相も大いに困り、やっとの事で一院制を二院制に改め得た訳。そしてかかる民定のものを勅語なくしてはどうしても出せぬという訳で勅語を願った次第なり。(略)

木下道雄『側近日誌』[31]より

「日本政府カ此ノ如キ憲法改正ヲ提示スルコトハ右ノ目的達成ノ為必要ナリ之ナクシテハ天皇ノ身体(パーソン、オブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」という松本手記どおりのことを、松本は昭和天皇に奏上した。史実としては、マッカーサーはこの奏上の1カ月以上も以前の1946年1月25日に、昭和天皇を戦犯裁判に出さない決意を固め、アイゼンハワー陸軍参謀総長に天皇が戦争犯罪に該当する証拠が見つからなかったとして、天皇を戦犯として追訴すべきではないと電報を送っている[32]。しかし、昭和天皇周辺がその情報に接するのは次の通り3月20日のことで、3月5日のこの時点ではそのことを知らなかった。

1946年3月20日、寺崎英成御用掛は、マッカーサーが天皇の退位を望んでいるか否かその真意を知りたい、とフェラーズ大佐(マッカーサーの軍事秘書)に聞き、情報が初めてもたらされた。

所謂「御退位論」に関する件

3月20日、木下侍従次長より所謂御退位に関する「マックアーサー」元帥の真意を探り得ざるやとの御話あり。

 たまたま同日夜「フェラーズ」大佐に妻子と共に晩餐に招待せられおりたるをもって、同席の「グリーン」大佐「スケンク」中佐帰還後、右に関し「フェ」に問い質したるが、次の如き回答を得たり。(寺崎の質問は省略)

「フェ」 余も率直に御答え致すべし。「マ」元帥は陛下の親友なり。御退位に付て、自分は元帥と論議したること無きも、天皇を戦犯とする考え方に対し(極東委員会参加国にありと付言せり)元帥は反対の意思を表明し、天皇にして戦犯と指名せられんか、日本は混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしと華府に報告したることあるを自分は承知す。御退位の場合には、誰が後継者となるかに付き種々困難なる問題を生ずべく、戦犯の場合と同じく日本は混乱に陥るべし。叙上の理由により『マ』元帥は陛下の後退位を希望せずと信ず。所謂「御退位」に関する件 木下道雄『側近日誌』[33]より

枢密顧問官

3月5日案は翌3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表された。しかしこれは、「異常ないきさつ」[34]であった。というのは、 当時は枢密院(1947年5月2日廃止された)があり、枢密院官制2号には「帝国憲法ノ条項ニ関スル草案又ハ疑義」は枢密院の諮詢事項とされていたからである[35]。そのため、1946年3月20日、幣原首相は枢密院で経緯を説明している。内容は、2月21日にマッカーサーと3時間に渡り会談したことから始め、2月27日以降、司令部が日本案の提示を強く要求したので、3月4日に日本案を内示したところ、司令部は「急速ニ之ガ研究ヲ要求シ司令部側ト内閣ノ係官ガ一堂ニ会シ徹夜シテ」3月5日案を作り、その夜、内閣法制局等の係官が徹夜して「憲法改正草案要綱」を作り発表した経緯、さらに草案で最も重要な第1条(象徴天皇)と第9条(戦争放棄)についての所見である[36]。その後、幣原は次のように述べた。

尚申シ添ヘタキハ2月末頃カラノ国際情勢デアル。其後ノ新聞電報ニ依レバ極東委員会ガ日本ノ今回ノ憲法草案ガ突如発表サレタコトニ対シ不満ノ意ヲ洩ラシテル居ルヨウデアル。 御承知ノ通リ極東諮問委員会ハ改組サレテ極東委員会ト対日理事会ノ二ツニナツタガ、極東委員会ト云フノハ極東問題処理ニ関シテハ其ノ方針政策ヲ決定スル一種ノ立法機関デアツテ、其第一回ハ二月二十六日ワシントンニ開催サレ其ノ際日本憲法改正ニ関スル議論ガアリ、日本皇室ヲ護持セムトスルマ司令部ノ方針ニ対シ容喙ノ形勢ガ見エタノデハナイカト想像セラル。マ司令官は之ニ先ンジテ既成ノ事実ヲ作リ上ゲムガ為ニ急ニ憲法草案ノ発表ヲ急グコトニナツタモノノ如ク、マ司令官ハ極メテ秘密裡ニ此ノ草案ノ取纏メガ進行シ全ク外部ニ洩レルコトナク成案ヲ発表シ得ルニ至ツタコトヲ非常ニ喜ンデ居ルト聞イタ。此等ノ情勢ヲ考ヘルト今日此ノ如キ草案ガ成立ヲ見タコトハ誠ニ喜ブベキコトデ、若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヨウニ思ワレ危機一発(ママ)トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル。以上「枢密院における憲法草案に関する説明要旨」[37]より

この日、枢密院では各員が幣原の説明を聞くにとどまり、特別の質疑もなく終了した[38]

その後、「憲法改正草案要綱」は口語化された上、4月17日、政府から「帝国憲法改正草案」として発表された。これを受け、「帝国憲法改正草案」を審査する枢密院の審査委員会が、幣原内閣の下で、1946年4月22日から5月15日まで8回に渡り開催された。政府側説明者は松本らであった。席上、松本から「天皇ノ身体」発言を聞いたという枢密顧問官の証言はない。松本は、1950年に東京大学占領体制研究会の宮沢俊義佐藤功丸山真男ら5人を相手に、次のように述べた。

この枢密院の会議は相当困ったんですよ。林頼三郎君、遠藤源六君などずいぶん議論して変な質問されまして、困ったのですが、しかし弁護しなければならないので、しまいには、どうしてもアメリカ人がいかぬということならば仕方がないじゃないかというところまで言いましたがね。それでやっとのことで通ったわけです。『松本烝治氏に聞く』[39]より

また、松本はその4年後の1954年7月7日、同趣旨を自由党憲法調査会でも証言している。

4月22日から5月15日まで、枢密院の委員会が7回か8回開かれまして、その委員会におきましても、非常な攻撃を受けましたが、これはどうもむこうがこういうひどいことを言うのですから、仕方ありませんと正直に言った方がいいだろうと思って、そうしないと天皇の身体が保障されないということで仕方がなかったのだということ言いまして、みんな反対論を打ち切ってもらいました。『日本国憲法の草案について』[40]より

どうやら、松本は枢密院で委員たちの追及の前に立ち往生してしまったらしい。そして、そこをようやく乗り切り憲法改正案担当者としての職責を全う出来たのだが、その時、ホイットニーの脅迫を盾にして委員たちの反対を封じ、乗り切ったのである。 2月13日にGHQ草案が手交された経緯は、審査委員会の席上、林頼三郎委員から「帝国憲法改正草案」起草の経過に関して質問があった時、それに対し、松本は幣原と相談の上、松本の口からその事実を説明しており、委員たちは事情を知らされていた[41]

枢密院審査は5月15日の第8回で一旦終了した後、5月22日に吉田茂新内閣が成立したのを受けて再開された(なお、松本は閣外に退いた)。吉田新内閣の下での審査は3回行われたが、5月29日の第1回再審査で、林委員が「なぜ改正の手続きを急ぐのか」と質問し、吉田首相は次のように答えた。

急ぐ理由については、マッカーサー元帥は内容もともかくだが時間が大切であり、いい憲法でも時期を失しては何もならない。2月26日の極東委員会の開会前後に発表したい。これは、日本が再軍備を企てているとか、その民主化は偽装だとかいうような空気を緩和するためにも必要だ。また、日本に理事会も来る。その到着前にすべてを解決しておきたいといった。また、本国の世論もどうかわるかも知れないし、他国軍が進駐することになるかも知れない。総選挙前に発表して選挙の題目にもしたいということであった。その後、条項についていろいろ交渉があった。皇室財産に関する規定など、日本人として納得できないところもあり、これについては、私自身、数回先方と会談したが、議会で修正すればいいではないか。この際は早く草案を作り上げて発表することを希望するといっていた。「急ぐ理由」についての吉田首相答弁(1)[42]

林はさらに、「それは草案を早く作ることの必要性を意味するので、いよいよこれを確定するについては慎重に審議してもよかろう」[43]と食い下がり、それに対し吉田は次のように述べた。

日本がなるべく早く主権を回復するためには、日本は再軍備のおそれなく、また、民主化も徹底したという感じを早く世界に与える必要がある。そのためには、これらのことを確立した根本法たる憲法が一刻も速やかに実現することが望ましいと考えている。「急ぐ理由」についての吉田首相答弁(2)[44]

枢密院での「帝国憲法改正草案」の検討は5月29日の1回で終了し、6月1日と同月3日は政府関係者を交えず枢密院の委員だけで協議した[45]

そして、6月8日に開催された枢密院本会議では、席上、潮恵之輔委員長は「政府言明のとおり憲法改正の速やかな実現を図ることは緊迫せる内外の情勢上、真にやむを得ないものであることに鑑み、本案大体の趣旨はこれを是認するのほかない」と言い[46]、続いて、林顧問官と野村吉三郎顧問官が疑念と憂慮を込めた意見陳述を行った[47]が、結局、林は「大局的見地から本案には賛成する」と述べ、また、野村も「本案は大局的から見てやむを得ない」と述べて、審理後の採決では起立多数で可決された[48]

のち、1954年4月13日に、衆議院内閣委員会公聴会で、枢密院で審査委員として審査に関わった野村吉三郎が、次のような証言をしている。

野村吉三郎であります。(略)この憲法がマッカーサーから強要されたときには枢密院におりまして、審査委員の一員でありました。この憲法は至るところに無理があるとは思いましたが、なかんずく第九条は後来非常にやつかいな問題になるんじやないかということを痛感したのであります。審査委員会でもしばしば意見を述べ、政府の御意見も聞きました。しかし当時は無条件降服というような状況であつて、彼らの言うがままになるほかないというような空気でありまして、形の上においては枢密院もこれで通つたのであります。衆議院内閣委員会公聴会での発言[49]より。

脅迫説の拡散

自由党での松本演説

1954年7月7日、松本は自由党憲法調査会で講演を行い、2・13日会談での「マッカーサー元帥はかねてから天皇の保持について深甚の考慮をめぐらしつつあったのであるが、日本政府がこの自分の出した対策のような憲法改正を提示することは、右の目的達成のために必要である。これがなければ天皇の身体の保障をすることはできない」[50]というホイットニー発言を紹介した上で、「そうしないと天皇の身体が保障されないということで仕方がなかった」[51]と演説した。そして、出席議員の「向こうが改正案を急いだ理由は何か」という質問に対し、次のように証言した。

天皇を国際裁判に出すかどうかというところに問題があったと想像しております。向こうの言うことを呑めば出さない。呑まなければ出す、そういうわけで、そういうことになったら大変だと思って、よんどころなく急いでやったのです。嫌と言えないことだったのです。『日本国憲法の草案について』([52]より

このような談話は「これでは脅迫に他ならないではないか」、という見方を広く導き出すことになった[53]。このような意味での「押し付け憲法論」が広く国民の間に広がったのは、この松本演説によるところが大きく[54]、押し付け憲法論の「究極の論拠」は松本のこの証言であるという指摘がある[55]

講演は松本自身が書き残した「二月十三日会見記略」などに基いていた(忘れている部分について「当時の手記など」を参照したと述べている)[16]。松本本人は、GHQ側から天皇に関する「脅迫」もしくは憲法の「押し付け」があったとの表現をこの講演中でしていない[56]

佐藤達夫「日本国憲法成立史」連載〔2〕

松本講演の翌1955年、佐藤達夫は『ジュリスト』に「日本国憲法成立史」の連載を開始、その第2回(第82号、1955年5月16日号)で、2・13会談の様子を資料出所を示さず「三 マッカーサー元帥はかねてから天皇の保持について深甚な考慮を巡らしていたが、日本政府がこの提案の如き憲法改正を提示することはこの目的達成のため必要である。これなくしては天皇の身体(パーソン・オブ・ゼ・エムペラー)の保障をすることはできない」と松本手記を口語化し、事実として紹介した[57]

「日本国憲法制定経過日録」(未定稿の三)

その翌1956年8月、国立国会図書館が作成した「日本国憲法制定経過日録」(未定稿の三)でも、1946年2月13日の項に「GHQ草案日本政府に手交さる」として「③ 天皇制保持の目的達成のためにも、司令部提案の如き憲法改正を提示することが必要であり、これなくしては天皇の身体“パーソン・オブ・ゼ・エンペラー”も保障しがたいこと(略)を勧告されるに至った。」[58]と記載した。これにも資料出所はない。

ウォード『現行日本国憲法制定までの経過』

さらにその翌1957年、アメリカの学者ウォードは『現行日本国憲法制定までの経過』に、「しかし、日本側に与えたといわれるもっとも決定的な圧力は、『天皇の身柄』に対する脅迫である。(略)この『脅迫』の用語、つまり、『天皇の身柄を保障することはできない』という用語は、また重要である。この言葉から考えられることは、この言葉に潜んでいる威嚇は、天皇制に対するそれではなく、いまの天皇個人に対するそれだ、ということであった」[59]と書き、ホイットニーを非難した。この論文の翻訳は、1958年3月、内閣の憲法調査会に資料として提出された。

脅迫説の検証

内閣の憲法調査会による調査

ホイットニーによる脅迫の真相を確かめるべく、1956年内閣に設置された憲法調査会(会長・高柳賢三)の「憲法制定の経過に関する小委員会」(以下「制定委」と言うことがある)は、1957年、調査を開始した。翌1958年には高柳を団長とする渡米調査団が調査を行った。

白洲次郎の証言

1957年11月20日、憲法調査会第6回総会で、中曽根康弘委員は2・13会談の日本側当事者の一人白洲次郎に、松本手記にある「天皇ノ身体」発言が記憶にあるか否かを質問した。この時、中曽根委員は「日本国憲法制定経過日録」の「天皇制保持の目的達成のためにも司令部提案の如き憲法改正を提示することが必要であり、これなくしては天皇の身体“パーソン・オブ・ゼ・エンペラー”も保障しがたいこと」という部分を読み、質問している。それに対し、白洲は「記憶ありませんね」と証言した[60]

高柳会長の国会答弁

1959年2月12日、高柳会長は「憲法調査会法の一部を改正する法律案」の国会上程に当たり、説明員として参議院内閣委員会に出席、矢嶋三義委員(社会党)の質問に答えた。矢嶋委員は高柳会長に、憲法調査会は「日本国憲法のどういう点が問題である、改正をしたい、で改正するのはいかように改正したらよろしいか、こういう角度で御研究をされておるように私は拝察するわけですが、いかがでございますか」[61]と憲法調査会のスタンスを問い、また、憲法調査会設置の提案理由に「現行日本国憲法は、占領下に、この抑圧され、制約されて、押しつけられてできた押しつけ憲法である。だからこれを再検討しなければならぬということ」が非常に強調された事実、及び、国会の速記録に「第一は占領軍の制約下においてこの憲法はできたという点を調査する。第二点においては、日本国の国情に沿うか沿わないかという点を調査するのが目的」であり、特に、政府としては第一点に重きを置いて「占領軍の制約下にこれが押しつけられた憲法としてできたという点に特に重点を置いて調査する考えである」と記録されているのを承知しているか[62]と質問した。

高柳会長はこれらに対し、それぞれ「私の会長として職務を行うようになりましてから、調査会は憲法の改正ということを前提として運営さるべきものではなく、憲法に関連する諸問題を客観的によく研究して、そしてその結果を内閣及び内閣を通じて国会に報告するというのが、法律でわれわれに委託された職務だ」と理解している[63]と、また、「法律になる前のいろいろな政府の提案というもの、それに、たとえば独立に運営をする憲法調査会が従わなければならぬなんという理由は、私はないと思う。法律ができた以上は、法律の精神というものに照らして日本国民のためにわれわれは仕事をするのだという気持でやるべきものである、特定の提案者がどういうふうに言ったかとか、言わないとかというようなことによってわれわれは拘束を受けないものと、こういうふうに私自身は考えております」[64]と答弁した。

矢嶋委員は委員会の渡米調査に関し「制約下において押しつけられた憲法であるからこれを再検討する、これに重点を置くというその一番根源をなすものは、それは一九四六年二月ママ自由党憲法調査会における松本博士の口述が非常に影響をしているわけですが、この松本博士の口述に対して、あなたの報告を見ますというと、明らかに誤謬の点が含まれているという調査結果なのか」[65]と質問した。これに対し、高柳会長は次のように松本口述は「間違い」だとする答弁を行った。

それはホイットニーが言った言葉、このラインで日本国政府が憲法草案を作らなければ、天皇の進退を保障しないと言ったというのです。その解釈は、もしこれをのまなければ天皇を戦犯にして出す、のめば出さない、こういうように松本氏は解釈しておられる。それはわれわれは調査の結果、どうもそうじゃない、そこにおった人、ホイットニーがこれを否定するのみならず、そこにおったハッシーでもラウエルでもみな否定しているし、日本人でもこういうことは忘れているというので、どうも私はちょうどそのころ戦犯のことをやっておりまして、マッカーサーの戦犯に関する考えを相当調査した。どうもこれは松本さんの考えはおかしいなと思った。マッカーサーの代表〔ママ〕がそんなおどかしをするなんて、おかしいと考えておったのですが、そこに出た人の証言によって、どうもそれが間違いだというふうに認定した。(略) 調査の結果としては、これをのめば出さない、のまねば出すと、こういうふうな松本博士の解釈はどうも間違いだ。向うは客観的に当時の国際情勢のいかにきびしいか、まごまごしていれば天皇制が危ないぞ、天皇身柄も危ないぞということを警戒〔ママ〕しておったのであって、そういう司令部の意思を表明したのじゃないというふうに解釈するのが正しいというふうに、われわれ三人〔渡米調査団の高柳賢三、高田元三郎、稲葉修〕とも一致したわけです。参議院内閣委員会での高柳会長答弁より[66]

翌2月13日の朝日新聞は、このやり取りを「高柳氏 押しつけ憲法説を否定」という見出しで報じた[67]

吉田茂、長谷川元吉の証言

吉田茂、長谷川元吉については、1959年2月26日の第18回制定委で、松本手記にあるホイットニー発言(「天皇ノ身体)発言)につき「覚えていない」ことが明らかにされた。ただし、吉田と長谷川は自ら証言したのではなく、吉田には高柳が、長谷川には大友一郎(渡米調査団の一人)が非公式に質問し、それが制定委で報告される形をとった。吉田は高柳に対し次のように言ったとされている。

覚えていない。そういうことを言ったとすれば、これは非常に重大だから覚えていなければならんはずだがね「天皇ノ身体」発言への吉田証言[68]

ホイットニー、ハッシー、ラウエルの証言

渡米調査団は、「天皇ノ身体」問題に関しては、次のような調査項目を携えてアメリカで調査に当たった。

〔10〕1946年2月13日の会談。 (3)総司令部側が、草案を手交した時に、ホイットニーが「もしこの草案を受諾しないならば天皇のパースンを保障しない」と述べたと伝えられているが、このような事実があったのか。また、もしこれが事実であるとしても、それは、日本側に対する「圧力」としてであったのか。それとも国際情勢の緊迫性を強調したものであったのか。更にそれは、天皇の極東裁判への喚問問題と関係していたかどうか[69]

第18回制定委で報告された調査結果は、次のようなものであった。

ホイットニーはその〔高柳〕会長宛の書簡において、天皇の身体について言うたにしても、それは天皇制、天皇の身体が客観的に危険な状態にあることについて述べたのであったといっている。

ハッシーはこう言っております。覚えていない、しかしそのときの危険な国際情勢を指してそういうことを言ったということは可能である。現にソ連その他はそのようなことを強調していた。そういうことをいったとしても、それは事実を指摘したものであって脅かしとは思わない。またその席にいた日本側の長谷川がそれを覚えていないというのは興味深いことではないか。

ラウエルはこう言っております。記憶していない。天皇制を維持し、天皇を傷つけまいということは、マ元帥の基本的な考えであった。連合国はしかし必ずしもそういう考えでなかったから、そうした事実から、新憲法草案を受け入れれば天皇の地位を強固にすることになるだろうという積極的な意味で言ったのではないかと思う。脅かしとして言うというようなことはないと思う。高田元三郎委員からの渡米調査報告[70]

高柳は帰国後、ラウエルから、2・13会談に関する米側記録の天皇に関する部分のコピーの提供を受けた[71]。これらを受け、1961年9月、「憲法制定の経過に関する小委員会」は脅迫については「当時の司令部の側には脅迫の意思はなかった」と結論し、次の文言を「むすび」とする報告書を同月開催の憲法調査会第56回総会に提出した。

ただし意見のだいたい一致を見たところを総合すれば、次のとおりである。 すなわち、原案が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、更にたとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは明らかなのであるから、この面に関する限り、それを押し付けられ、強制されたものであるとすることも十分正当である。特に、日本側の受諾の相当大きな要因が、天皇制維持のためであったことも争えない事実である。ただ、それならば、それは全部が押し付けられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあり、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで、制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。要するに、それらの点は、この報告書の全編を通じて、事実を事実として判読されることを期待する以外ない。『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』より[72]

また、『現行日本国憲法制定までの経過』を書きGHQを批判したウォードも、『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』を見て高柳に書簡を寄せ、自分の論文は佐藤達夫の論文を唯一のソースとしており、他に根拠はないと言い、その後来日して高柳と会談した際には、「他のエヴィデンスの明らかになった現在なら、あのような記述はしなかった」と高柳に述べた[73]

委員、元委員47名の共同意見書

56回総会の2年後、1963年9月4日付で、憲法調査会の有志17名が連名で高柳会長あてに「憲法改正の方向」という文書を提出、次いで、同会の委員、元委員計47名が「憲法制定の経過に関する小委員報告書」の「結論」に反対する「共同意見書」を提出している。「共同意見書」は、次のように述べる。

われわれは、日本国憲法制定の経過を考察するに、日本国憲法は、実質的に、日本国民の自由な意思で制定された憲法であると認めることはできない。すなわち、連合軍総司令部より憲法草案が交付された時点の客観情勢、特に手交された日本側の心理状態、公職追放や相当数の未帰還日本国民の存在、政府原案の作成及び議会における修正がいずれも連合国総司令部の承諾を必要としていた事実等に照らし、憲法制定に関する正常なる手続によったものとはいえず、自由意思の表明の著しく困難な状態で作られたといわざるを得ない。

第2次世界大戦以後出現した各国の憲法の中に、外国軍隊の占領下において、憲法の修正又は制定を禁止する規定を設けるものがあるが、日本の事態は正にこの規定の該当する外国による軍事占領下の、国民の自由意思の保障されない状態下における憲法制定であったと認めざるをえないのである。しかしこのことは、制定過程における瑕疵を指摘するのであって、この不幸な事態がいかなる事由で招来され、又、その制定の内容が将来いかなる意味をもったかということは、別個に評価を要することである。

われわれは、民主憲法の主要な一要件として、制定手続きの自主性を重視する見地からこの事実を事実として指摘するものである。委員、元委員計47名の「共同意見書」[74]より

これに先立つ1959年開催の憲法調査会総会(1月の第24回及び2月の第25回)で、松本が自由党でした「向うのいうことを呑めば出さない、呑まなければ出す」という証言の評価を巡り、高柳会長と中曽根委員等の間で激しい応酬が交わされた。高柳は渡米調査の結果から第24回総会で、「呑めば出さぬ、呑まねば出すという松本氏の解釈は、全然誤解であったものとすべきものである」[75]と報告したが、これに対し中曽根は、「松本博士の口述も〔ホイットニー証言と〕同じくらいの値打」「あるいはもっと大事な値打を持っておるくらいの、平等の資料」である。「そのときの客観的情勢の下に御本人はそう感ぜられたのであって、その感ぜられたことまでもアメリカ側の資料によって否定することは行き過ぎ」[76]であり、高柳は「アメリカ側の態度に立ったような見方が非常に強」く[77]、「松本口述に関する部分については自分は納得できない」[78]と述べた。また第25回総会では、「なぜ松本さんのいうことも、そっくり信用しないのか」「向うのほうの言うことを、そんな正直な男であると信用するならば、なぜ松本さんの言うことも、そっくり信用しないのか。(略)向うの連中が自分のやったことを、あとで弁護するということも、歴史的にもよくあることで当たり前のことです。人の国の憲法を強制して作らしたなんて言うバカは一人もおるはずはないのです。(略)そういう点について、アメリカ側の発言、アメリカ側の人物については、わりあい無条件にこれを呑んで、日本側については相当割引しているという態度を私は遺憾に思うのであります」と述べた[79]

憲法調査会報告書

「共同意見書」を受け、1964年9月に刊行された『憲法調査会報告書』は、「日本国憲法の制定過程をいかに評価すべきか」の項目では、総括の初めに、「中曽根康弘委員ほか29名の委員および18名の元委員、合計47名の委員の共同意見書に示されているように、現行憲法は日本国民の自由な意思に基づいて制定されたものではないとする意見が多数であり、これに反対の見解は少数である」とした[80]。『報告書』は、全ての委員の意見を論拠と共に公正に報告するという申し合わせ[81]があり、それに則って高柳の現行憲法は「日米合作」の憲法であるという意見も報告された[82]

「ラウエル所蔵文書」の翻訳・出版

その後の検証作業は、高柳賢三と田中英夫によって行われた。1965年の夏、高柳賢三はラウエルから憲法制定の過程に関わる文書の全部―「ラウエル所蔵文書」―のコピーの提供を受け、それを田中英夫が翻訳し、1965年から1967年にかけて、『ジュリスト』に「ラウエル所蔵文書」の題で24回に渡り連載した。2・13会談の記録は、第357号(1966年11月1日号)に連載第21回として掲載された。前述したように、これはケーディスら3人が連名で書き、ホイットニーに報告したものである。

以下は、1946年2月13日、日本側がGHQ草案を読み、松本が「貴案ハ我方ノ考ト余ニ懸離レ居ル為」「充分検討ノ上更ニ御相談致シ度シ」と述べたあとのホイットニーの発言である。冒頭、ホイットニーは、「自分は非常にゆっくりしゃべるが、もし松本博士に分からない点があれば、いつでも私の発言をさえぎっていただきたい、というのは、吉田氏だけでなく松本博士にも、自分のいうことを一語残らず理解して欲しいからである」[83]と言い、次いで次のように述べた。

「さて、みなさんにこの文書の内容をよくみていただいたわけですが、これまでどおりわれわれはすべて手のうちを見せあって行きたいと思いますので、最高司令官がこの文書をあなた方に提示しようと考えるにいたった真意と理由とについて、若干説明を加えたいと思います。最高司令官は、最近各党が公にした政綱が憲法改正を主たる目的としていることを知り、また国民の間に憲法改正が必要だという認識が非常に高まっていることを知りました。国民が憲法改正を獲得できるようにするのというのが、最高司令官の意とするところであります。」

「あなた方が御存知かどうか分かりませんが、最高司令官は天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。(略)」

「最高司令官は、私に、この憲法をあなた方の政府と党に示し、その採用について考慮を求め、またお望みなら、あなた方がこの案を最高司令官の完全な支持を受けた案として国民に示されてもよい旨を伝えるよう、指示されました。もっとも、最高司令官は、このことをあなた方に要求されているのではありません。(略)最高司令官は、できればあなた方がそうすることを望んでいますが、もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります。(略)」

「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であると考えています。そしてそれは、あなた方が左に急旋回〔してこの案を受諾〕することによってのみ、なされうると考えています。

(以下略)」2・13会談でのホイットニー発言[84]より

話が一段落してから、ホイットニーは、松本が一度も通訳の助けを借りなかったことを話題にし、松本もこれに応えて、自分はホイットニーの言ったことは完全に理解したが、このことを総理大臣に知らせ、かつ憲法草案について検討し討議する機会をもつまでは、ホイットニーに回答することはできないと述べている。次いで松本は通訳者を介して、一院制を定めた規定について論議を始める記述が続くが、これは日本側の記録と同様である[5]

『ジュリスト』の連載を単行本にしたものが、1972年刊行の『日本国憲法制定の過程』I・IIである。1946年の松本「二月十三日会見記略」から26年後、1954年の自由党証言から18年後にアメリカ側の詳細な記録が世に出た。 これは2・13会談当日に記録され、証拠性が極めて高いと思われた。同著の「序にかえて」の中で高柳は、「GHQ草案を日本に示したのは日本政府に対する命令ではなく、勧告であって、日本政府は説得によって、この勧告に従うことになったと考えていた司令部関係者は、GHQ草案押し付け論は心外なことと感じていた」[85]と書き、同著により日本国憲法の制定に関する歴史的事実の解明が期待された。

宮沢俊義の反論と田中英夫の再反論

これに対し、翌1973年、宮沢俊義が『ジュリスト』3月15日号・第528号に「日本国憲法押し付け論について」を書き、高柳に真っ向から反論した。宮沢の結論は、①松本のメモに書いているから、「天皇の身体」発言はあった、とする。そして、他の日本人当事者が覚えていないのは「これは、ふしぎである」として、吉田・白洲・長谷川3人の共謀説にまで言及している[注 6]。次ぎに、(2)「この会談の全体の主旨からいえば、松本の聞き違いではない」とする。宮沢は、質疑応答において松本が「天皇を国際裁判に出すかどうかというところに問題があったのではないか」と想像しているのはまちがいではなく、これは「向こうの言うことを呑めば出さない。呑まなければ出す」ということだ、とする。さらに、「最高司令官といえども、万能では」ない、「この憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になる」というホイットニー発言は、「これは、もしこの規定を呑まなければ、天皇は安泰でない、もし呑めば、天皇は安泰だというのであろう」[86]と松本を支持した。そして、2・13会談で「ある種の『脅迫』なり『嚇し』なりは、いずれにせよそこに厳存した」、それが「おしつけ」憲法の正体であり、司令部関係者の「勧告」や「説得」は、「戦敗国日本の実感」としては「命令」や「脅迫」と紙一重だと主張した[87]

これに対し田中英夫は、同年、『ジュリスト』に「「『警告』と『勧告』―押し付け憲法論について―」」という反論を書いた[88]が、当時は日米各一の記録しかなく、史料不足の観があった。

白洲と長谷川の記録の公開

田中の反論から3年後の1976年5月1日に、白洲次郎と長谷川元吉の記録が第1回「外務省外交記録公開」により公開された。これは、2・13会談から30年ぶりの公開であった。二人の記録には、松本の言う「天皇の身体(パーソン・オブ・ゼ・エムペラー)」発言は記録されていなかった。

外交記録公開は、学界、国会からの外交記録の公開を求める声、特に戦後史や占領行政史への関心の高まりを受けて、外務省が1975年12月に決定したものであった。戦後の外交記録を欧米諸国の例にならい、いわゆる30年ルールにより公開する基本方針が決定され、白洲と長谷川の記録は、1946年からちょうど30年経っているため、第1回で公開された。第1回の公開内容は「連合軍司令部来信綴・往信綴、連合軍側と日本側との会談集、帝国憲法改正関係一件(研究資料)」である[89]

ケーディスの告白

ケーディスは、白洲と長谷川の記録公開を受け、1989年、『日本国憲法制定におけるアメリカの役割』[90]を書き、次のように2・13会談と憲法調査会の渡米調査の聞き取りにおける新事実を明かした。

ホイットニーの言葉を記憶していた人々は、ホイットニーが採った方法を恥ずかしく思っていると述べた。その方法とは、ホイットニーが、天皇制ではなくて、「天皇個人の処遇について脅迫的言辞を弄したこと」についてであった。特にハッシーは、1958年に、ケーディスとラウエルに対し、日本の憲法調査会にはこのことをまだ秘密にしておきたいと言った。けれどもラウエルは、松本がホイットニーの言葉を天皇個人に対する脅迫であると解釈したと聞くや、「1946年2月13日の出来事の記録」を日本の憲法調査会が利用し得るように取り計らった。  憲法調査会会長であった高名な憲法学者の高柳賢三は、その覚え書きを再検討し、さらに、松本とホイットニーの両者から話を聞いた後、「あの厳しい会談でのホイットニーの真の意図は、ありのままにかつ客観的に、冷厳な国際情勢を述べたに過ぎない」と結論づけた。高柳の結論は、その会談に出席していた2人の日本人担当官が、同時にしたためたメモで裏打ちされている。2人のメモのどちらにも、天皇の安全、あるいは個人に対する脅迫については触れられていない。ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」[91]より。

GHQ草案が手交された1946年2月13日の場面において、ホイットニーが「脅迫的言辞」を弄したという、自分たちにとり不利な事実を敢えて明らかにした理由について、ケーディスは「もし本当に脅迫がなされたのなら、英語に堪能な2人の日本人担当官が両者とも、天皇に対する-個人に対する-脅迫について記し損ねたとはまったく信じられない。彼らの翻訳は、2月13日の面会のアメリカ側の見解を完全に裏打ちしている」と述べている[92]。また、ケーディスはいくつかの歴史的事実を挙げ、ホイットニーの言辞は、天皇を戦犯裁判にかけようとする海外からの圧力の情報を要約し、日本側に忠告したものだとしている。

このとき〔1946年2月13日に〕ホイットニーが知っていて、日本側がおそらく知らなかったことは、1945年11月30日、統合参謀本部が、極秘の海外電信で、天皇が戦犯として起訴されることを免れないとマッカーサーに伝えたという事実である。統合参謀本部は、天皇が極東国際軍事裁判所で裁判を受けるべきかどうかを決定するための証拠を要求していた。さらに、ホイットニーが知っていて、日本側がおそらく知らなかったことは、面会の2週間前の1月25日に、統合参謀本部への秘密電信で、マッカーサーが、天皇を裁判にかけることに強い反対の立場をとったという事実である。ホイットニーが知っていて、これはおそらく日本側も知っていたことは、ジョージア州出身の有力な上院議員リチャード・ラッセルが、「日本のヒロヒト天皇を戦犯として裁くことが合衆国の方針である」と宣言し、上院に、共同議案を提出したという事実である。ホイットニーの言辞は、天皇を「戦犯裁判」にかけようとする海外からの絶え間のない圧力についての情報を要約し、日本側に伝えるものであった。つまり、ホイットニーは、たとえていえば、弁護士が依頼人に、もし彼の助言を拒否すれば、依頼人が陥ってしまうであろう重大な危険性について助言するように、日本側に忠告していたのである。ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」[93]より。

研究者等の見解

佐藤達夫

『日本国憲法成立史』の著者佐藤達夫は、1959年2月、高柳の国会答弁とその後の新聞報道(#高柳会長の国会答弁を参照)を受け、産経新聞に「憲法は“押しつけ”か」を書き、「例の“天皇の身体”をめぐる脅迫の有無」は「押しつけ問題のキメ手にはなりえない」とした。 佐藤は「わたしなども、たまたま当時の関係者だったという縁故から、『憲法は押しつけか』という質問をよく受けるが、そういう質問に対しては、『一口にはとても答えられない。政府で原案を作る段階においては、たしかに少なからぬ圧力があった。それにしても、決してマ草案そのままを呑まされたわけではなく、先方との交渉によって、政府の意思も相当にとり入れられている。これに対し、議会の審議では少し事情が違う。それには議員側の修正について一部が拒否され、また“文民”のように、先方の指示によって加えられた条項もあるけれども、その一方、大部分の修正はそのまま認められているし、また、議員に対して賛成を強制したような事実もなかった。現に採決にあたって辛ラツな反対演説をし、また反対投票をした人々もある』-というように答えている」という。佐藤は「“押しつけ”のいかんを躍起になって究明する実益があるのかどうか問題だ」とし、「憲法制定についての外部の影響力を判定するについては、マ草案の公布から成立にいたるまでの全過程にわたって精密な診断を必要とするし、またそれが明らかになったとしても、これを“押しつけ”か否かという単純な評語で割り切るには適しないように思う」「“天皇の身がら”をめぐる脅迫の存否というようなことも、多くのポイントのなかの一つであり、それだけでは問題のキメ手にはなりえないであろう。これは、逆に高柳会長の報告が“押しつけ”肯定であったとしても同じことだと思う」としている[94]

吉田茂

GHQ草案手交時の当事者の一人だった吉田茂は、『世界と日本』(1963年)で、「憲法押しつけ説」につき、「世には新憲法制定過程における総司令部の異常な督促ぶりに対する非難をこめて、マッカーサー憲法などと称するものがあるが、もしそこに強制の事実がありとしても、それは日本政府が総司令部によって強制されたのではなく、総司令部を含めた日本そのものが、四囲の情勢によって強制されたものである。その間におけるマッカーサー元帥のわが皇室に対する敬意と好意とは、没却すべからざる事実であり、その意味においては正にマッカーサー憲法といって差支えないであろう。この間の事情は憲法調査会の調査結果でも明らかになったはずである」[95]としている。

田中英夫

ラウエル文書を翻訳した田中英夫は、1973年に佐藤功、佐藤達夫と3人で行った座談会「日本国憲法制定の過程の問題点」[96]で、2・13会談の記録ではないものの、1946年2月19日付で、ホイットニーがマッカーサーに宛てた「最高司令官のための覚え書き」[97]の中でperson of the Emperorという言葉を用いていることに触れ、「そういうことからいうと、〔2・13会談でホイットニーが〕person of the Emperorということばを使うことが、およそありえないことだとはどうもいえないのではないか」とする[98]。該当箇所は以下のとおり-

「この憲法の草案を十分に理解すれば、それが、天皇の尊厳と一身を護り(protecting the dignity and person of the Emperor)、修正された形で天皇制を護らしめるものであり(以下省略)」[99]

また、松本があれほどの確信を持って言うのだから「少なくとも〔ホイットニーが〕person of the Emperorといった可能性のほうが50%よりは多いといえるのではないか」としている[98]

一方、「のめば〔戦犯裁判に〕ださない、のまなければ〔戦犯裁判に〕だす」という松本の表現は、GHQがまだ態度決定をしておらず、GHQ案の受け入れの如何で、天皇を戦犯裁判にかけるかどうかを決めるという含みを持っている。しかし、マッカーサー3原則自体が「天皇は国の元首の地位にある」としており、天皇制の維持は前から決まっていることであるから、松本の表現は「ちょっと不正確」だとする。これに対し、日本国憲法の制定に深く関わった佐藤達夫も「それは不正確だ」と賛同している[98]

佐藤功

憲法学者の佐藤功は、佐藤達夫亡き後、『日本国憲法成立史』第3巻(1994年)で、佐藤達夫が記述した「2月13日」の項目[100]に関して追補を行った。即ち同記述は、もっぱら松本の「会見記略」及び自由党憲法調査会での談話(「日本国憲法の草案について」の談話)によるもの[101]とし、それについて、1961年の憲法調査会『憲法の制定の経過に関する小委員会報告書』、1972年の『日本国憲法制定の過程』I、1989年のケーディス論文までを網羅して、多面的で詳細な記述を行っている[102]。また、佐藤功は自身が作成した同著付録1の「日本国憲法成立過程の日歴」に、1946年2月13日の項として「2・13 ホイットニー准将等、マ草案を吉田外相・松本大臣に手交」としか記していない[103]。(#「日本国憲法制定経過日録」(未定稿の三)を比較参照)。

古関彰一

憲法学者の古関彰一は『新憲法の誕生』(1995年)で、「松本証言を裏づける資料はどこにもない。しかし、松本証言が正しいとしたら、こう申し渡された2月13日の時点からこの『押しつけ』にはかなり深刻になっていなければ辻褄が合わない。ところがすでに見たごとく少なくとも2月18日までは松本は自信満々であり、GHQに『少し教えてやる方がいい』と考えていたくらいである。してみると、仮に松本が2月19日の閣議で〔2月〕13日の場面を松本証言のごとく報告していたとしても、それは〔2月〕18日付の『説明補充』がGHQに全く受け入れられず、逆に48時間以内の期限付き回答を迫られるなかで、2月13日にホイットニーが『この新しい憲法の諸規定が受け入れられるなら・・天皇は安泰になる』と言ったことが『これ(GHQ案)が受け入れられなければ天皇の身体の保障をすることができない』と言ったと思い込んでしまう精神状況ができた、あるいは、GHQ案を受け入れざるを得なくなった理由を脅迫に求めたと解することが、もっとも妥当なのではあるまいか」とする[104]

また、2015年11月24日、北海道新聞のインタビューで古関は、憲法押しつけ論は、松本による手記や証言が発端になっているが、1946年3月4日の「3月2日案」を巡る日米交渉の際、「それまで自分に反論する人間などいなかったであろう松本は、30歳近く年下の相手〔ケーディス〕から厳しく指摘され、かなり立腹した」「それは私的な怒り、私憤でしたが、松本は公憤、国民全体の怒りに変えようとしたのではないか」と述べている[105]

竹前栄治

占領史研究家の竹前栄治は『日本国憲法検証第1巻憲法制定史』(2000年)で、松本発言は、他に証拠がないことから「今日では正確でないとされている」としながらも、「この趣旨に近い発言が行われたと推測することは十分可能である」とし、後にホイットニーが述べた「当時、マッカーサーは、占領行政の実施に当って、もっと過酷な、残忍非道ともいうべき方法を執るように、一部の連合国政府から強い圧力を受けていた。天皇を主要犯罪人として裁判するように要求する国さえあった。天皇に対する発言は、このような情勢の一般的概観という枠内で、重要な改革を促進させる措置を奨励するためであった」という発言を紹介している[106]

西修

憲法学者の西修は『日本国憲法はこうして生まれた』(2000年)で、吉田、白洲、長谷川がいずれも記憶にないと言っている史料的証拠及びケーディスとウォードに直にインタビューし、両者が共に松本の「天皇の身体」発言を否定した結果から、「『天皇の身体』云々の発言が本当にあったのかどうかは、藪の中といわざるを得ない」としつつ、「マッカーサーママ の天皇戦犯に対する発言があったことは事実で、あるいは松本大臣がややオーバーに聞いたのかもしれない。ただ、そのような一つの言葉にもきわめて敏感にならざるを得ないほど張りつめた空気が支配していたことは確かであっただろう」とする[107]。西は『図説日本国憲法の誕生』(2012年)では、松本以外に「天皇の身体」にふれた史料はないが「『最高司令官といえども万能ではありません』、『この新憲法(総司令部案)が受け入れられれば、天皇の地位は実際に安泰になるだろう』などの言葉を合わせて、松本がこの案を呑まなければ、『天皇の身体』が守られないと考えたのも不思議ではないだろう」としている[108]

西は同著で、1946年2月15日に白洲次郎がGHQに再考を促そうとして書いた手紙、いわゆる「ジープ・ウェイ・レター」に対するホイットニーの回答-「外部から日本に対して、憲法が押し付けられる可能性があり、そのときは最高司令官がなんとか保持を可能にしている日本の伝統や機能を一掃しかねない非常に厳しい内容になるでしょう」という内容-に触れ、「これは、決して脅しではなかった。というのは、極東委員会の設置が目前に迫って控えており・・同委員会構成国のなかには、天皇制廃止を強硬に主張している諸国もあったからである」としている[109]

力を用いること自体の授権

なお、「1946年2月4日民政局の会合の要録〔民政局がマッカーサー草案の起草に着手した際の模様〕」[110]には、ホイットニーの言として、「力の行使」に関する次のような記録が存在する。

自分としては、外務大臣とそのグループに、天皇を護持し、かつ彼等自身の権力として残っているものを維持するための唯一の可能な道は、はっきりと左よりの〔進歩的な〕道をとることを要請するような憲法を受け容れ、これを認めることだ、ということを納得させるつもりである。自分は説得を通じてこういう結論に達したいと希望しているが、説得の道が不可能なときには、力を用いるといっておどかすだけでなく、力をもちいること自体の授権を、マッカーサー将軍からえている。「1946年2月4日民政局の会合の要録」[111]より

このことに関し、高柳賢三は、次のように述べている。

この点について、会議に出席していたラウエルは、高柳に寄せた手紙のなかで、この文書は会議のサマリーであるが、この個所は、サマリーを作った者の解釈で書かれたもので、不正確である。このような授権はことの性質上あり得ないものであって、その誤りであることは明白であると言っている。さらにラウエルは、この会議で、ホイットニー准将は、SWVCC-228について説明し、SWVCC-228の実行に当たっては、一定の事態の下では、マッカーサー元帥が、力のおどしないし力の行使が許されているということを指摘したのであると言っている。(略) そして、ラウエルは、右の手紙で、憲法改正についても、マッカーサー元帥は、命令を出して日本政府に強要する権限は与えられていたが、憲法改正に際し、このようなことは起こらなかった。日本政府に対する民政局の行った最も強い回答は、日本政府の提案はポツダム宣言に合致しないので総司令部の承認し得ないものであるとしたことだけであったといっているのである。高柳宛ラウエル書簡[112]より

ラウエルは、1964年9月2日、高柳への手紙と同趣旨をカリフォルニア州フレズノ・カウンティ公証人を前にして、宣誓口述している。ラウエルは1946年2月4日の会合に、最初から終わりまで出席していた人間として、次のように宣誓した。

この口述宣誓書を添付する「1946年2月4日民政局の会合の要録」と題する文書中、その第5段にある「説得の道が不可能なときには、力を用いるといっておどかすだけでなく、力をもちいること自体の授権を、マッカーサー将軍からえている」との個所は、この要録にある〔上記〕文言で述べられたこともなく、また実質的にそれと同趣旨のことが述べられたこともない。

マイクロ・E・ラウエル(署名)

ラウエルの宣誓口述[113]より

ラウエルのこの口述宣誓書は『日本国憲法制定の過程』Iに収録されているが、その理由を、高柳は「かなり年月がたってから作られた文書ではあるが、問題が極めて重要な点に関するだけに、ここに掲げておく」としている[114]

松本私案の評価

1946年2月8日にGHQに提出された「憲法改正草案要綱」(松本甲案)は条文の形式ではなく、「何々スルコト」という形式で書かれていた。明治憲法の「第一章 天皇」(第1条-17条)を、「憲法改正草案要綱」(松本甲案)が修正した箇所は7項目あるが、次のように第1条から4条までは「神聖」を「至尊」と一カ所だけ読み替えを行い、また軍に関する条文は「陸海軍」を「軍」と読み替えただけであった。

一 第三条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」ト改ムルコト

五 第十一条中ニ「陸海軍」トアルヲ「軍」ト改メ且第十二条ノ規定ヲ改メ軍ノ編制及常備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルモノトスルコト(要綱二十参照)

つまり、もし条文化されていたとすると、下記の案がGHQに提出されていたことになる。

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

第三条 天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

第十一条 天皇ハ軍ヲ統帥ス

委員会内の異論

憲法案に対しては、松本委員会内部からも批判や疑問が出ていた。1945年12月頃、委員会補助員で東大講師であった当時の佐藤功には「精神的には新憲法の制定と考へねばならぬ程の今次我国の憲法改正の画期的意味に徹するならば」「将来我国国政の基準たるべき新しき原理を果敢に採り入れる態度に出ねばならぬ筈であった」が「当時の政府にはかかる態度に対する著しい消極性が見られた」[115]と映った。また、翌1946年1月に松本私案が示された頃には、「あのような調子で松本さんを中心にしてやって行ったのでは、どうもあきたらないという空気が関係者の間にあった」[116]とされる。特に2月1日に松本委員会の案が毎日新聞にスクープされた翌2月2日の委員会の総会では、委員の内閣法制局長官・石黒武信から「天皇制についても議会で堂々と論議させたらよいではないか。議会の修正権をおそれるのは男らしい態度ではない」[注 7]、石黒と同じく委員であった内閣書記官長・楢橋渡から「改正案では『天皇ハ軍ヲ統帥ス』という文句は削ってもらいたい。それを残しておくと天皇制もふっ飛んでしまう。平和国家という一本槍で行きたい。それが軍の意向だ」といった発言があった[注 8]

『昭和天皇実録』における記述

2014年9月に公表された『昭和天皇実録』には、松本が1946年1月7日に松本私案を奏上した後の2月12日に、昭和天皇が「松本私案」について、次の考えを木下道雄侍従次長に伝えたという記述がある。

松本は自己の在任中に憲法改正を完遂したいとの意思を持っているようであるが、慎重に議論する必要があること、さらに松本は、帝国議会において現行憲法〔明治憲法〕条文のままとする部分に論議が及んだ場合、議会に権能なしとして拒絶する考えというが現実的でない旨を仰せになる。1946年2月12日、昭和天皇が木下侍従次長に伝えた言葉[117]

GHQによる評価

GHQは「松本私案」を「最も保守的な民間草案よりも、さらにずっとおくれたもの」と評価していた[118]

幣原内閣内の勢力変化

1946年1月25日のマッカーサーの決意が日本側にもたらされたのは、同年3月20日の事であり、2・13会談当時及びその後、松本が「想像」を働かせたのは無理からぬところがある。しかし松本は、自分は憲法改正の王道を歩んでいるつもりでいたが、実はいつの間にか、憲法改正の抵抗勢力になってしまっており、しかもそのことを知らなかった。幣原内閣は当初、松本案を支持する閣僚とGHQ草案を支持する閣僚とで五分五分であり、吉田外務大臣は松本案支持派の筆頭であった[119]。しかし、1946年2月21日の幣原=マッカーサー会談、翌22日の吉田、松本、白洲とホイットニー、ケーディスらとの会談以降、流れは変わってくる。22日の会談は、同日の閣議においてGHQ草案に沿って憲法改正を考えることに方向が決まったことを受け、作業を進めるに当たり「考慮される問題点に関し、主として法律的見地から意見の交換を行った会談」であった[120]。同時に、松本案の支持を得ようとする最後の試みでもあった[121]

内閣書記官長・楢橋渡

幣原内閣(1945年10月9日-1946年5月22日)で、発足時内閣法制局長官、46年1月13日より内閣書記官長、2月26日より国務大臣(内閣書記官長兼務)[122]とトントン拍子に位階を極めた楢橋渡は、これまで憲法制定史であまり注目されてこなかったが、憲法改正を推進したキーマンである。楢橋は内閣書記官長であった当時、ケーディスとハッシーから秘密情報を打ち明けられ、「絶対秘密裡に」協力を要請された[123]。楢橋は二人とは友達づきあいし、一緒にダンスをしたり、酒を飲んだり、何でも打ち明ける仲であった[124]

突如として司令部から2月の13日に今のマッカーサー憲法というものを持ってきた。私のところにケーディスとハッシーが参りまして、この憲法を大体2週間くらいで作り上げろということを申した。(略)松本憲法とか甲案とか乙案ということでは間に合わなくなった。(略)極東委員会においてソビエト・ロシアその他2、3の国が天皇を廃した共和主義にする憲法草案を日本側にマッカーサーに至上命令としてだすぞという秘密情報が自分の方に入っておる。だからどうしても、それがくれば、マッカーサーが進駐以来、日本の国情というか、天皇と国民との関係等を詳細に検討をしておる今日の段階において、そういうものがくれば非常な混乱がおきて、マッカーサーの占領政策に痛い失敗というか、大きな影響を与えるものであるから、どうしてもその案がくる前に相当思い切った案をもって向うの案を押さえなければ押さえ切れないということを実は申したのであります。 その案の一番大きなポイントは、結局天皇制と軍備の問題の2つをもつて、むしろ極東委員会のそういうような案に肩すかしを食わせるというか、機先を制して、反対のできないような案をもつてその場を切り抜ける以外には方法がないというようなことを実は申しまして、私にそれはあくまで日本のためであるから協力してもらいたい、そうしてもしこれが漏れるようなことがあれば私を厳重に処罰するといいました。憲法調査会第5回総会での楢橋証言[125]より

避雷針憲法

楢橋は決意して幣原に断行することを伝え、幣原より一切の委任を受け、極秘裡に作業を進めた[126]。上記楢橋の証言は、1946年3月20日に、幣原が枢密院でした説明内容とほとんど一致する。楢橋にとって、GHQ草案は「避雷針憲法」であった。極東委員会という「雷」から、天皇を守る「避雷針」がGHQ草案である。つまり、楢橋にとってGHQ草案は、国際情勢の変化から、共和制(大統領制)という日本にとって「より不幸」で「より不利」な事態が来るのを切り抜けるために、「好意のある考えで」作られた憲法である[127]。楢橋は、かりに極東委員会がマッカーサーを通じて、共和主義憲法を日本に強要した場合に、日本社会が「大混乱に陥る」事態を想定した。それを避けるために、天皇神権的な考えを払拭していかなる民主主義諸国も反対できない憲法を作ることで、危機を切り抜けようと考えた[128]

楢橋は1946年2月24日、ケーディスとハッシーを自宅に招待し懇談した。この時点で自分が閣僚になることが分かっていた楢橋は、二人に自分が閣僚を希望した理由を「内閣書記官長としてもちうる影響力だけでは、〔民主的な案を通すための〕内閣総理大臣のたたかいを援けるには不十分であることが分かったので閣僚となる決心をした」[129]と語った。

閣内での駆け引き

楢橋は内閣書記官長として、閣議に陪席する資格があった。これは内閣法制局長官の石黒武重も同様である[130]。しかし、楢橋、石黒を通しGHQ側に情報が漏れていると懸念した松本は、二人に「向こう〔GHQ〕へ出す憲法の要綱の議事のときにはどいてくれ」「これは閣員だけにしてもらいたい。厳正に秘密にしたい」と言い、楢橋の不興を買ったことがあった[131]。しかし、その後、幣原首相は楢橋と石黒を国務大臣に推挙する[132]

最高司令官のための覚え書き       1946年2月25日

内閣は、ただいま、終戦連絡事務局を通じて、下記2名のものを、現職のまま無任所大臣に任ずることに対する同意を求めてきました。

楢橋渡―――現職、内閣書記官長

石黒武信―――現職、法制局長官

同時に、内閣は、これら両名が、現在のように投票権なしに閣議に出席するというにとどまらず、〔正式に〕閣議に列席することが許されるようにしたいと望んでいる旨が、伝えられてきました。

楢橋は御存知のように、政府にあって、閣下の指令の精神に従わせるよう顕著な努力をしています。石黒は、楢橋が〔法制局長官から〕内閣書記官長に栄転した際その後任に選ばれたもので、楢橋と密接に協力しているものです。

このような措置が現在の問題点に対処するために内閣を強化する目的で、内閣総理大臣にとられようとしていることが、私の心にとまりました。(以下略)

〔署名〕コートニー・ホイットニー

ホイットニーのマッカーサー宛て報告[133]より

幣原が楢橋と石黒を大臣に推挙した上記「内閣を強化する目的」とは、言葉を代えて言えば「閣内の保守派の勢力を弱めるため」[121]であった。この舞台裏を松本は十分に理解していない[134]。また、当時内閣法制局次長だった入江俊郎も1954年の時点で「石黒、楢橋両氏が松本さんの保守的な意見をけんせいすべく国務大臣になったというようなことはない」[135]と証言しており、全く極秘のうちに進められていた事態[136]であった。

楢橋は2月24日、ケーディス、ハッシーとの懇談の席上、次のように語った。すなわち、憲法改正を巡る内閣・政府内での敵対感情は非常に激しく、幣原はじめ若干の閣僚の生命を狙われる可能性が現実味を帯びている。そのため自分は、幣原が公衆の面前に立つ時には、いつでも幣原と並んで立つようにしている。というのは、「首相と運命をともにしたいからだ」。さらに楢橋は、松本は「全力をあげて〔憲法改正の〕決定を遅らせようとし」ており、「貴族院はこのような案に承認を与えないであろうとかいった、法律屋的な異議を唱えて」いると評し、「必要があれば、松本博士に辞職を余儀なくさせるつもり」であるし、また、「貴族院が頑強に反対するならこれを壊滅させることもできます」と述べた。また、吉田が憲法問題についてどういう立場を取っているかというケーディスらの質問には、「吉田は「〔幣原〕内閣総理大臣や自分と同じ立場に立っています」と答えている[137]

1946年3月5日の閣議

この日、閣議は朝から夜遅くまで何度も開かれた。午前中は、松本から2月22日から今日に至るまでの経過報告があった。一方、閣議と並行して、日比谷の第一生命相互ビルでは、徹夜で内閣法制局第一部長の佐藤達夫とGHQとの憲法草案審議が続けられていた。閣議の間も審議済みの確定草案の部分が次々と送られて来て、案が出来るに従って謄写配布され、松本から説明が行われた[138]。それは午後も続いたが、午後の閣議で問題となったのは、確定草案をどう扱うかということであった。

確定草案の受け容れへ

GHQは確定草案(英文)のコピー10部を白洲を通じて内閣に届け、それを5日中に受諾するかどうかの回答を要求していた[139]。これに対し松本は、確定案はとうてい承認できないので、再対案を作成の上交渉を再開することを主張し、日本側の自主的な案として発表する考えの多数派と対立した[140]。これに対し、三土内相、岩田法相は松本と論戦を行い、楢橋書記官長(国務大臣兼務)、石黒法制局長官(国務大臣兼務)、入江法制局次長等が「不満足でもあることは重々分かるが、これを日本側の自主的の案として先方と同時に発表するという態度に出るほかあるまい」と説得に努めた[141]。さらに、松本は改正手続きの点でも他閣僚と対立した。確定草案は前文で国民が憲法を発議することになっており、明治憲法第73条(発議権は天皇にある)と矛盾した。その矛盾を勅語により天皇が発案した形にして解決する案に辿り着くまで時間を要した。松本はそのアイディアを、既に2月22日にホイットニーから聞いていたが、そのことを一言も言わなかった上、閣議でそのアイディアが出された時、「それは三百の議論だ」と言い、さらに「勅語を仰ぐとしても誰が副書するのか、かような勅語に閣僚が副署するのは面白くない」と発言した。そこで内閣書記官が調査して、勅語に副書は不要と判明したので松本はようやく納得した[142]

確定草案の採択

閣僚たちは日本側が受諾しなくてもGHQは草案を公表すると信じており、そうなれば新聞はそれに賛成し、内閣は草案を支持する左翼政権に道を譲って総辞職せざるを得ないと判断した[143]。閣議は午後4時頃ようやく一段落し、その後、閣議を一時中止して、午後5時頃、幣原首相と松本国務大臣は参内して奏上した[144]。午後8時過ぎ、幣原の帰りをまって再開された閣議で、初めて確定草案の翻訳全部が閣僚に配布された。憲法の各条に渡っての審議などまるで行えない状態であった[145]。天皇から改正案に対する承認を得たことで、閣僚たちは草案受け入れの手続きに入り[146]、閣議は午後9時15分に至ってようやく終了した[147]。その日の閣議の様子を松本は次のように回想した。

私はなにしろこんなものを急いでやるからこういうやっかいなことになる。そんなに急いでやらなければならん理由がどうも分からぬ。少しでも遷延して、興奮した状態を去ってからやるようにしたいと思ったのだから、この不完全なものをすぐそのままとらずにもう少し待って、もう一ぺん総理でも行って話をしてもらいたいということをずいぶん言ったのです。ところがいやもう向うの状態は非常に事急でそんなひまはないのだということを、たしか楢橋君だったかだれか言われまして[注 9]、のまなければたいへんなことだし、のむよりほかないだろうというような意見が多数でしたよ。そのときぼくの考えに賛成した人がいたのかどうか覚えはないんですがね『松本烝治氏に聞く』[148]より

極東委員会への対応

これが松本の実際の行動であり、1954年の「よんどころなく急いでやった」証言と矛盾している。「そういうことになったら大変だと思ってよんどころなく急いでやった」のは、松本ではなく、楢橋である。楢橋は、極東委員会から共和制憲法が「押し付けられる」事態をさけ、昭和天皇を擁護するために一肌脱いだ。3月5日の閣議を受け、日本政府は翌3月6日、「憲法改正草案要綱」を発表した。その日、楢橋は出来たばかりの「憲法改正草案要綱」13通に、ハッシーの前でマッカーサーと共に署名をし、英文の憲法が日本語原文の正確な公式訳であることを証明した[149]。11通は極東委員会11ヵ国の分、1通はアメリカ側保管用、1通は日本側保管用である[150]。その後、ハッシーはそれを持参して特別機でアメリカに飛んだ[151]。翌3月7日は、極東委員会で日本国憲法に関する討議が予定されており、それに間に合わせるためであった[152]。楢橋は後日、「非常にうまくいって間に合った」という話をハッシーから聞いた[151]。つまり、マッカーサーは「極東委員会がまさに大統領制の日本国憲法草案を発令しようとする直前にこの憲法草案を突込んだ」[153]のであり、「極東委員会に対して先手を取った」形となった[154]

押し付け憲法論の検証

豊下楢彦は、「いわゆる『押し付け憲法論』は、当時の緊迫した内外情勢の中で、いかに昭和天皇の地位を護り、いかに昭和天皇を維持すべきであったかという、具体的・実証的な分析を欠いた情念論」である[155]とし、GHQ草案作成の意図は何よりも「天皇の為になる」というところにあり、「天皇制維持の立場に立つならば『押し付け』を批判するどころか、マッカーサーに心からの『感謝』を捧げて然るべき」[156]と主張している。

古関彰一は、「押し付け憲法論」の「究極の論拠」は、1954年7月の自由党憲法調査会で、松本が、「ホイットニーは、これ(GHQ案)がなければ天皇の身体の保障をすることはできない、とGHQ案の受け入れを迫った」と証言したことであると主張している[55]#高柳会長の国会答弁の矢嶋発言も参照)。

脚注

注釈

  1. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、「序にかえて」ⅸ、ⅹ頁。この中で高柳は、日本国憲法の基礎になった案が日本側の案ではなく、GHQ草案であり、したがって、日本国民の意思のみによったものではないという意味で「押し付け憲法」というのなら何ら問題はない。しかし、「押し付け憲法」論争はこのようなものではなく、この案を日本政府が呑まなければ天皇を戦犯裁判にかける、といったような重大な脅迫によって、この案を日本政府に押し付けたのかどうかが争点であった、と述べている。「識者が語る「私の"日本国憲法論"」【2】【憲法学者・古関彰一】『押し付け』説はどこから生まれたか?」(2015年8月)も参照
  2. これには、「1946年2月13日最高司令官に代わり〔ホイットニー民政局長が〕外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」というタイトルがついている。 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、323-333頁
  3. 竹前栄治・岡部史信『日本国憲法検証第1巻憲法制定史』(小学館文庫)2000年、209頁。ジョン・ダワーも、松本は、「GHQ草案は法律を知らない『素人の』作った案だと馬鹿にし」ていた、と述べている。『敗北をだきしめて』下(岩波書店)2001年、153頁
  4. 日本側憲法改正案は「憲法問題調査委員会」(松本烝治委員長。通称「松本委員会」)で検討し、1946年1月24日には、「松本私案」とそれを要綱化した「甲案」、さらに改正幅の広い「乙案」を持つに至った(入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、50、51頁)。閣議では「松本私案」と「甲案」を中心に検討し、2月4日に討議を終えたが、閣議決定をして決めたのではなく、将来司令部と交渉する場合の「有力な参考として閣議で論議し合ったという形」であった。(入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、85頁)
  5. GHQ草案を基にした日本側草案を1946年3月11日までに完成する予定であったが、GHQから督促を受け3月2日に日本文を整理・印刷し、3月4日にGHQ本部に持参した経緯のことを言っている。(古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、169、170、177頁)。ここで言う「松本私案」とは3月2日案のことである。
  6. 宮沢俊義「日本国憲法押し付け論について」『ジュリスト』第528号(有斐閣)、1973年3月15日号、97、8頁。ここで宮沢は、「松本以外の日本側の参列者が、天皇の『パーソン』うんぬんを全然『記憶していない』のは、非常におかしい。(略)日本側の参列者が、意識的に、共謀して、『記憶していない』という返事をしたとも想像できるが、それは、根拠を欠く推測かも知れない」と述べている。
  7. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、64頁
  8. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、93頁
  9. 佐藤・佐藤『日本国憲法成立史』第3巻では、これは「幣原首相」の言葉だとする(154頁)

出典

  1. 佐藤達夫「日本国憲法成立史」〔2〕『ジュリスト』第82号(有斐閣)、1955年5月16日号、13頁。佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、47頁
  2. 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、151頁
  3. 長谷川元吉の手記より。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁
  4. 長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁
  5. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、329頁
  6. 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁
  7. 東京大学占領体制研究会『松本烝治氏に聞く』(憲法調査会事務局)1960年、28、9頁。なお、これは1950年11月23日に採録したものである。
  8. 松本烝治『日本国憲法の草案について』(自由党憲法調査会)1954年9月、12、3頁
  9. 長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁
  10. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、333頁
  11. 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180-181頁
  12. 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179-180頁
  13. 高柳賢三田中英夫「ラウエル所蔵文書」〔連載第21回〕『ジュリスト』第357号(有斐閣)1966年11月1日号、85-85頁
  14. この書は、高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I及びII(有斐閣)1972年である
  15. 1976年5月1日の第1回「外務省外交記録公開」のうち「帝国憲法改正関係一件(研究資料)」。ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」(上)(『法律時報』65巻6号)1993年5月号、36頁
  16. 小林公夫 レファレンス 863 号「「押し付け憲法」論の起源」p.16
  17. 降伏関係往復文書-「ポツダム」宣言受諾に関する8月10日付日本国政府申入
  18. 『松本烝治氏に聞く』55頁
  19. 松本、『日本国憲法の草案について』、13頁
  20. 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)、157-8頁。高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)、121頁
  21. 「白洲手記」、210、1頁
  22. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、335頁
  23. 進藤榮一編『芦田均日記』第1巻(岩波書店)1986年、75、6頁
  24. 江藤淳『もう一つの戦後史』(講談社)1978年、431、2頁
  25. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、1、2頁
  26. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、199頁
  27. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、3頁
  28. 『芦田日記』、77頁。入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、200頁
  29. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、201頁
  30. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、200、201頁
  31. 木下道雄『側近日誌』(文藝春秋)1990年、163-4頁
  32. 粟屋憲太郎『東京裁判論』(大月書店)1989年、199頁
  33. 木下道雄『側近日誌』(文藝春秋)1990年、222頁
  34. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、268頁
  35. 伊藤隆監修・百瀬孝著『事典昭和戦前期の日本―制度と実態―』(吉川弘文舘)1990年、50頁
  36. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、268、316-318頁
  37. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、318、9頁
  38. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、269頁
  39. 『松本烝治氏に聞く』、44頁。
  40. 松本、「日本国憲法の草案について」、28頁
  41. 『憲法制定の経過に関する小委員会第14回議事録』(憲法調査会事務局)1958年11月13日、11頁
  42. 『日本国憲法制定の由来―憲法調査会小委員会報告書―』(時事通信社)1961年、363頁
  43. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、337頁
  44. 『日本国憲法制定の由来』、263頁
  45. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、322頁
  46. 西修『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫)2000年、303頁
  47. 西修『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫)2000年、304頁
  48. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、340、41頁
  49. 第19回国会 衆議院内閣委員会公聴会 第1号 (昭和29年4月13日)発言順第002番 日本ビクター株式会社社長(元駐米大使)野村吉三郎”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1954年4月13日). 2020年2月4日閲覧。
  50. 松本、『日本国憲法の草案について』、10、11頁
  51. 松本、『日本国憲法の草案について』、28頁
  52. 松本、『日本国憲法の草案について』、32頁
  53. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』II(有斐閣)1972年、58頁
  54. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、「序にかえて」ⅹ頁
  55. 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、161頁
  56. 小林公夫 レファレンス 863 号「「押し付け憲法」論の起源」p.17
  57. 佐藤、前掲論文、13頁
  58. 国立国会図書館『日本国憲法制定経過日録』(未定稿の三)1956年、27、8頁
  59. ロバート・ウォード『現行日本国憲法制定までの経過』(憲法調査会事務局「憲資・総第17号」)1958年、37頁
  60. 『憲法調査会第6回総会議事録』(憲法調査会事務局)1957年、45、6頁
  61. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第142番 矢嶋三義”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  62. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第152番 矢嶋三義”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  63. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第143番 高柳賢三”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  64. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第153番 高柳賢三”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  65. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第168番 矢嶋三義”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  66. 第31回国会 参議院内閣委員会 第6号 (昭和34年2月12日)発言順第169番 高柳賢三”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1959年2月12日). 2020年2月4日閲覧。
  67. 朝日新聞1959年2月13日朝刊2面 『朝日新聞縮刷版昭和34年2月号』1959年3月15日発行、184頁
  68. 『憲法制定の経過に関する小委員会第18回議事録』(憲法調査会事務局)1959年2月26日、16-7頁
  69. 『小委員会第18回議事録』、15頁
  70. 『小委員会第18回議事録』、15、6頁。また、より詳しい報告は『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』(憲法調査会事務局)1961年、352-359頁参照
  71. 『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』』(憲法調査会事務局)1961年12月、354、355頁
  72. 『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』、603頁
  73. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』II、59、60頁
  74. 『憲法調査会における各委員の意見』(憲法調査会)1964年7月、675頁
  75. 『憲法調査会第24回総会議事録』(憲法調査会事務局)1959年1月21日、25、26頁
  76. 『憲法調査会第24回総会議事録』、40頁
  77. 『憲法調査会第24回総会議事録』、38頁
  78. 『憲法調査会第24回総会議事録』、42頁
  79. 『憲法調査会第25回総会議事録』(憲法調査会事務局)1959年2月4日、7頁
  80. 『憲法調査会報告書』、416頁
  81. 『憲法調査会報告書』、2、3頁
  82. 『憲法調査会報告書』、417頁
  83. 『ジュリスト』第357号(1966年11月1日号)、86頁。 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、327頁
  84. 『ジュリスト』第357号、85-87頁。 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、327、329頁
  85. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、「序にかえて」ⅹⅳ
  86. 宮沢、前掲論文、98頁
  87. 宮沢、前掲論文、99頁
  88. 『ジュリスト』第530号(1973年4月15日号)
  89. 外務省公開外交記録
  90. 翻訳は『法律時報』1993年(65巻6・7号)に「上」「下」が掲載されている。なお、竹前栄治・岡部史信『憲法制定史』(小学館文庫)2000年、311頁以下にも、論文が抄録されている。引用は『憲法制定史』(小学館文庫)に依った。
  91. 『法律時報』65巻6号、35頁。竹前・岡部『憲法制定史』(小学館文庫)2000年、328-9頁
  92. 『法律時報』65巻6号、36頁。竹前・岡部『憲法制定史』(小学館文庫)2000年、329頁
  93. 『法律時報』65巻6号、36頁。竹前・岡部『憲法制定史』(小学館文庫)2000年、330-1頁
  94. 佐藤達夫『随想集土曜日・月曜日』(第一法規出版)1964年、266-269頁。この本は佐藤が新聞各紙に掲載した随想を単行本化したものである。
  95. 吉田茂『世界と日本』(番町書房)1963年、98頁
  96. 『ジュリスト』第531号(1998年5月1日号)、80-94頁に掲載。
  97. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、371-6頁に掲載。
  98. 『ジュリスト』第531号(1998年5月1日号)、90頁。
  99. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、372-3頁。
  100. 佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、47-9頁
  101. 佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、49頁
  102. 佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、49-56頁
  103. 佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、8頁
  104. 古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫)1995年、167-8頁。古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、162-3頁
  105. 2015年11月24日付「北海道新聞」朝刊第8面(14版)
  106. 竹前栄治・岡部史信『日本国憲法検証第1巻憲法制定史』(小学館文庫)2000年、193頁
  107. 西修『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫)2000年、194-6頁
  108. 西修『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)2012年、55頁
  109. 西修『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)2012年、57頁
  110. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、101-107 頁
  111. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、103頁
  112. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』II(有斐閣)1972年、47-8頁
  113. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、107-8頁
  114. 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、109頁
  115. 佐藤功『憲法改正の経緯』(日本評論社)1947年、44頁
  116. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、95頁
  117. 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)2015年、16頁
  118. 連合国最高司令部民政局『日本の新憲法』(憲法調査会事務局)1956年9月、38頁
  119. 『日本の新憲法』、54頁
  120. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、403頁
  121. 『日本の新憲法』、55頁
  122. 林茂・辻清明編『日本内閣史録5』(第一法規)1981年、32頁
  123. 『憲法調査会第5回総会議事録』(憲法調査会事務局)1957年11月6日、24頁
  124. 楢橋渡『激流に棹さして』(翼書院)1968年、92頁
  125. 『憲法調査会第5回総会議事録』、24、5頁。同趣旨、『激流に棹さして』95、96頁
  126. 楢橋渡『激流に棹さして』(翼書院)1968年、98頁
  127. 『憲法調査会第5回総会議事録』、25、41頁
  128. 『憲法調査会第5回総会議事録』、30頁
  129. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、409頁
  130. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、1頁
  131. 『松本烝治氏に聞く』、62、64頁
  132. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、403、5頁
  133. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、403、405頁
  134. 『松本烝治氏に聞く』、62-64
  135. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、89頁
  136. 『憲法調査会第5回総会議事録』、25、6頁
  137. 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、407、409頁
  138. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、213-215頁
  139. セオドア・マクネリー「管理された革命」『日本占領の研究』(東京大学出版会)1987年、144頁。芦田、前掲書、89頁
  140. 「松本烝治氏に聞く」、42頁
  141. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、215頁
  142. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、215-217頁
  143. セオドア・マクネリー「管理された革命」『日本占領の研究』(東京大学出版会)1987年、144頁。竹前、前掲書、201頁。芦田はこの考えをすでに2月19日の閣議で述べている(『芦田日記』、77頁)
  144. 入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規出版)1976年、214-217頁。『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』、402頁
  145. 『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』、403頁
  146. ジョン・ダワー、前掲書、164頁
  147. 『芦田日記』、90頁
  148. 『松本烝治氏に聞く』、49頁
  149. 『日本の新憲法』、56頁
  150. 佐藤・佐藤、前掲書、176頁
  151. 『憲法調査会第5回総会議事録』、25頁
  152. 西修『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)2012年、62頁
  153. 『激流に棹さして』、98頁。同旨『憲法調査会第5回総会議事録』、25頁
  154. セオドア・マクネリー「管理された革命」『日本占領の研究』(東京大学出版会)1987年、168頁
  155. 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)2015年、35頁
  156. 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)2015年、34-5頁

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