漢

漢(かん、拼音: Hàn)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。

漢
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紀元前206年〜8年

23年〜220年

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漢の位置
首都 長安
(紀元前206年– 9年、190年–195年)

洛陽
(25年–190年、196年)

許昌
(196年–220年)
言語 上古漢語
宗教 儒教
政府 君主制
皇帝
 •  紀元前202年–紀元前195年 太祖
 • 紀元前11年-5年 平帝
 • 25年–57年 世祖
 • 189年–220年 献帝
宰相
 • 紀元前206年–紀元前193年 蕭何
 • 紀元前193年–紀元前190年 曹参
 • 189年–192年 董卓
 • 208年–220年 曹操
 • 220年 曹丕
歴史
 • 建国 紀元前206年
 • 垓下の戦いによって漢王朝の中国支配がはじまる 前202年
 • 呉楚七国の乱の平定により中央集権統一政府の再成立 前154年
 • 武帝による対匈奴遠征 前133年–前71年
 • 新による簒奪と漢王朝の中断 9年–23年
 • 魏による簒奪 220年
面積
 • 紀元前50年[1] 6,000,000 km² (2,316,613 sq mi)
人口
 •  2[2]年推定 57,671,400人
通貨 半両銭や五銖銭など
現在 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
大韓民国の旗 韓国
ベトナムの旗 ベトナム
モンゴル国の旗 モンゴル
中華民国の旗 中華民国(連江県、金門県)
中国歴史
中国歴史
先史時代
中石器時代
新石器時代
三皇五帝
(古国時代)
(黄河文明・
長江文明・
遼河文明)
夏
殷
周(西周)
周
(東周)
春秋時代
戦国時代
秦
漢(前漢)
新
漢(後漢)
呉
(孫呉)
漢
(蜀漢)
魏
(曹魏)
晋(西晋)
晋(東晋) 十六国
宋(劉宋) 魏(北魏)
斉(南斉)
梁 魏
(西魏)
魏
(東魏)
陳 梁
(後梁)
周
(北周)
斉
(北斉)
隋
唐  
周(武周)
 
五代十国 契丹
宋
(北宋)
夏
(西夏)
遼
宋
(南宋)
金
元
明 元
(北元)
明
(南明)
順 後金
 
清
 
中華民国 満洲
 
中華人民
共和国
中華
民国

(台湾)

中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。

この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに亘った。中国初の統一王朝は秦王朝だったが短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定した王朝は直後の漢王朝とみなされることとなった。これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった[注釈 1]。

漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。

歴史

漢(前漢)

紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が紀元前195年に没したのち、しばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握ったものの、紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代文帝および6代景帝は文景の治と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長した。また、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が呉楚七国の乱と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化した。その後即位した7代武帝はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった匈奴を破り、南越を併合し西域諸国を服属させて漢の全盛期を現出した。しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かった。10代宣帝は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、外戚の王莽が8年に簒奪を行って新王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びた。

後漢

漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招いた。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である更始帝によって打倒された。その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興した。この王朝のことを後漢と呼ぶ。後漢は2代明帝、3代章帝といった名君が続いて国力を回復させ、班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出したが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政を壟断するようになって国力は低下していった。そして184年に起こった黄巾の乱によって漢の統治力は大きく減退し、董卓の暴政とその董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で曹操の庇護の下、細々と名目のみ存続する状態となった。やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、三国鼎立の様相を呈するようになった。220年に曹操が死去すると、後継者である曹丕は後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡した。

漢朝歴代皇帝

漢朝皇帝世系図

※代数は前後を合わす。また太字以外の皇帝は歴代に含めない場合もある。

代 名前 在位
―漢(前漢)―
1太祖高帝紀元前206年 - 紀元前195年
2恵帝紀元前195年 - 紀元前188年
3前少帝紀元前188年 - 紀元前184年
4後少帝紀元前184年 - 紀元前180年
5太宗文帝紀元前180年 - 紀元前157年
6景帝紀元前157年 - 紀元前141年
7世宗武帝紀元前141年 - 紀元前87年
8昭帝紀元前87年 - 紀元前74年
9昌邑王(海昏侯)紀元前74年
10中宗宣帝紀元前74年 - 紀元前49年
11高宗元帝紀元前49年 - 紀元前33年
12統宗成帝紀元前33年 - 紀元前7年
13哀帝紀元前7年 - 紀元前1年
14元宗平帝紀元前1年 - 5年
―新末後漢初―
15武順王更始帝23年 - 25年
―後漢―
16世祖光武帝25年 - 57年
17顕宗明帝57年 - 75年
18粛宗章帝75年 - 88年
19穆宗和帝88年 - 105年
20殤帝105年 - 106年
21恭宗安帝106年 - 125年
22少帝懿125年
23敬宗順帝125年 - 144年
24沖帝144年 - 145年
25質帝145年 - 146年
26威宗桓帝146年 - 167年
27度宗霊帝167年 - 189年
28少帝弁189年
29献帝189年 - 220年

漢を国号とした諸国

漢の国号は皇帝であった劉氏の姓と密接に結びつき、前漢・後漢の両漢王朝以後も劉姓の王朝によってたびたび使われた。劉姓の王朝において「漢」を号しなかったものは、匈奴系の夏と南朝の宋のみであるが、逆に劉姓以外の王朝が漢を号したことは幾度かある。

「漢」名の由来

漢中(郡名・国名)

戦国時代、この地を支配した秦は漢江の上流域に漢中郡を置いた(「〜中」は河川流域の盆地をいう命名法)。秦が滅ぼされると、咸陽攻略の功労者劉邦が漢中・巴・蜀の地に王として封ぜられ、漢王(「漢中王」の意)を名乗った。

漢王朝に由来する諸名称

中国の地を意味する「漢」

「漢土」の語は、古写経本や僧侶の書簡などにみえ、これよりかつての日本では中国の地を指す名詞として用いられていたとされる。同様な言葉に「秦」「唐(もろこし)」がある。(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)と華中(長江流域)を区別し、前者のみをさす用法もあった)

民族名・文化名としての「漢」

民族としての「漢民族」、エスニックグループとしての「漢人」「漢族」、そして漢字、漢語、漢風などの特定文化をさす「漢」は漢王朝の名に由来している。(漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である)(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)住民と華中(長江流域)住民を区別し、前者のみをさす用法もあった)

脚注

注釈

  1. 西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。

出典

  1. Taagepera, Rein (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 115–138. doi:10.1017/S014555320002294X. JSTOR 1170959.
  2. Nishijima (1986), pp. 595–596.
  3. 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年6月、60頁。
  4. 藤田豊八「南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。
  5. 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題” (PDF). 歷史語言研究所集刊第八本第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2022年2月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220223112641/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4878HxvVMRs.pdf. "近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。"

関連項目

外部リンク

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