ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈り(ゲツセマネのいのり)は、共観福音書マタイマルコルカの3福音書)に見られるイエス・キリストオリーブ山の麓にあるゲツセマネの園十字架刑に処せられる前夜に祈った祈りである。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。

ゲツセマネの園で祈るイエス(ポール・ゴーギャン作)

内容

イエスがエルサレム弟子たち最後の食事をした後、エルサレム東郊に位置するオリーブ山にあるゲツセマネの園へ向かい、そこで夜を過ごした。マタイ・マルコ・ルカの3福音書(共観福音書)によれば、悲しみもだえたイエスはその場で十字架刑を受けることの苦悩を祈るが、見張りを頼まれた弟子たちは眠ってしまい、イエスから叱責された。3度祈った後にイエスは決心して、自ら逮捕されるために進んでいったという。

眠っている弟子たちを起こそうとするイエス(ドゥッチョ作)

マルコによる福音書』(14:32-42)はこの出来事に関して以下のように述べている。

彼らはゲツセマネという名の場所にやって来た。彼(イエス)は弟子たちに言った、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」。 彼はペトロヤコブヨハネを伴って行ったが、ひどく心配し、苦悩し始めた。彼らに言った、「わたしの魂は死ぬほどに深く悲しんでいる。ここにとどまって、見張っていなさい」。

少し進んで行って地面にひれ伏し、もしできることなら、その時が自分から過ぎ去るようにと祈った。彼は言った、「アッバ[注釈 1]、父よ、あなたにはすべてのことがおできになります。この杯をわたしから取り除いてください。それでも、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」。

やって来て、彼らが眠っているのを見つけて、ペトロに言った、「シモン[注釈 2]よ、眠っているのか。一時間も見張っていられなかったのか。あなた方は誘惑に陥らないよう、見張って、祈っていなさい。霊はその気でも、肉体は弱いのだ」。

再び離れて行き、同じ言葉で祈った。もう一度戻って来て、彼らが眠っているのを見つけた。彼らの目は非常に重くなっていたのである。そして彼らは、彼に何と答えたらよいか分からなかった。彼は三度目にやって来て、彼らに言った、「なお眠って、休息をとりなさい。もう十分だ。時が来た。見よ、人の子は罪人たちの手に売り渡される。立ちなさい、さあ行こう。見よ、わたしを売り渡す者が近づいて来た」。[1]
天使に慰められるイエス(カール・ハインリッヒ・ブロッホ作)

マタイによる福音書』(26:36-46)ではこれとほぼ同じ記事が見られる。一方で、『ルカの福音書』(22:39-46)では以下のようにある。

彼は出て来て、自分の習慣どおりに、オリーブ山に行った。弟子たちも彼に従った。 その場所に来ると、彼は彼らに言った、「あなた方は誘惑に陥らないよう、祈っていなさい」。

彼らから石を投げて届くほどの所に下がり、ひざまずいて祈り、こう言った、「父よ、もしそう望まれるなら、この杯をわたしから取り除いてください。それでも、わたしの意志ではなく、あなたのご意志がなされますように」。

天から一人のみ使いが彼に現われ、彼を強めた。 彼は苦しみもだえ、ますます熱烈に祈った。彼の汗は大粒の血の滴りのようになって地面に落ちた。

祈りから起き上がり、弟子たちのところに来ると、彼らが悲しみのために眠り込んでいるのを見いだした。 それで彼らに言った、「なぜあなた方は眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい」。

ヨハネによる福音書』では以上の記事が見られず、イエスがケデロンの谷の向こう側にある園(『ルカ』と同様に「ゲツセマネ」という名前は使われていない)へ向かう途中に弟子と後世の信者のために祈りを捧げる場面が記されている(17:1-26)。共観福音書におけるゲツセマネの祈りに相当する言葉が出てくるのは最後の晩餐の直前の以下の出来事である(12:20-36)。

ところで、祭りの際に崇拝のために上ってきた者たちの中に、あるギリシャ人たちがいた。 それでこれらの人たちは、ガリラヤベツサイダ出身のフィリポのところに来て、「イエスにお目にかかりたいのですが」と言って彼に頼んだ。 フィリポはやって来てアンデレに告げ、アンデレはフィリポと共に来て、彼らはイエスに告げた。 イエスは彼らに答えた、「人の子が栄光を受ける時が来た。 本当にはっきりとあなた方に告げる。一粒の小麦は地に落ちて死ななければ、それはそのままで残る。しかしそれが死ぬなら、たくさんの実を生み出す。(中略)

「今、わたしの魂は騒ぐ。わたしは何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。だが、この理由のためにわたしはこの時に至ったのだ。父よ、あなたのみ名の栄光をお示しください!」

すると天から声が出て、こう言った。「わたしはその栄光を現わした。そして再び栄光を現わそう」。

そのため、そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。他の者たちは、「み使いが彼に話したのだ」と言った。

イエスは答えた、「この声は、わたしのためではなく、あなた方のために来た。 今こそ、この世の裁きの時だ。今、この世の支配者は投げ出されることになる。 そしてわたしは、自分が世から挙げられるなら、すべての人をわたしへ引き寄せるだろう」。 しかし、自分がどんな形で死ぬことになっているかを示そうとして、彼はこのことを言ったのである。[2]

また、イエスが逮捕される際に、それを止めようとしたペテロに対して「父がわたしに与えた杯は飲むべきではないか」と言っている(18:11)。

考証・解説

地面にひれ伏したイエス(ヴァシリー・ペロフ作)

『マルコ』の記事について

『マルコによる福音書』におけるゲツセマネの祈りの記事では意味が重複している表現がいくつか見られる[3][4]

  • 「彼らはオリーブ山へと出て行った」(14:26)―「彼らはゲツセマネという名の場所にやって来た」(14:32)
  • 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」(14:32)―「ここにとどまって、見張っていなさい」(14:36)
  • 「ひどく心配し、苦悩し始めた」(14:33)―「わたしの魂は死ぬほどに深く悲しんでいる」(14:34)
  • 「もしできることなら、その時が自分から過ぎ去るようにと祈った」(14:35)―「この杯をわたしから取り除いてください」(14:36)
  • 「やって来て、彼らが眠っているのを見つけて」(14:37)―「もう一度戻って来て彼らが眠っているのを見つけた」(14:40)
  • 「人の子は罪人たちの手に売り渡される」(14:41)―「見よ、わたしを売り渡す者が近づいて来た」(14:42)

このことから、『マルコの福音書』に見られる記事はイエスの祈りにまつわる2つの伝承(原資料)を一つに組み合わせたものという説が提唱されている[5][6]。ただし、どの句がどの原資料に属するかについては意見が微妙に異なる。

著者原資料A原資料B
R. ティール(1938年)[7]14:33, 34, 35a, 36, 37, 3814:32, 39, 35b, 40, 41a
E. ヒルシュ(1951年)[8]14:34, 35, 37, 4214:32, 36, 38a, 41
K.G.クーン(1951年)[9]14:32, 35, 40, 4114:33, 34, 36, 37, 38
P.ベノワ(1962年)[10]14:32a, 34b, 32b, 35, [40-41a], 41b, 4214:33, 34ac, 39, 36, 37, 38
M.-E.ボワスマー(1972年)[11]14:26, 32b, 35a, 36, 40, 4114:32a, 33, 34b, 38, 39.36, 37
J.W.ホレラン(1973年)[12]14:32, 33b, 30, 40, 41, 42a14:33a, 34, 39a, 36, 37, 38
X.レオン・デュフォー(1979年)[13]14:32, 33b, 35, 40, 5014:33a, 34, 36, 37
D.スタンリー(1980年)[14]14:32, 33b, 35, 40, 41, 42a14:26b, 33a, 34, 36, 37, 38
J.マーフィー・オコナー(1998年)[15]14:26b, 32b, 35, 40a, 41, 4214:32a, 33a, 34, 36, 37, 38, 40b

ジェローム・マーフィー・オコナーは、悲しみと恐怖に襲われて地面に倒れてしまうイエスを描く「原資料A」(:Source A)のほうが古く、それに対してもっと冷静なイエスが出てくる「原資料B」(Source B)は「A」への反動として後に成立したものであるとしている。また、イエスが祈った場所をオリーブ山にある「ゲツセマネ」で、連れて行った弟子をペトロとヤコブとヨハネの3人と明示する「B」のほうが「A」よりも整えられているという指摘もしている[5]

オリーブ山でのイエスの祈り(大メテオロン修道院の壁画)
マーフィー・オコナー説における2つの伝承[5]
原資料A 原資料B
彼らはオリーブ山へと出て行った。

そして彼は弟子たちに言った、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」。

すると彼はひどく心配し、苦悩し始めた。

少し進んで行って地面にひれ伏し、もしできることなら、その時が自分から過ぎ去るようにと祈った。

戻って来て、彼らが眠っているのを見つけた。彼らの目は非常に重くなっていたのである。

彼らに言った、「なお眠って、休息をとりなさい。もう十分だ。時が来た。(…)立ちなさい、さあ行こう。見よ、わたしを売り渡す者が近づいて来た」。
彼らはゲツセマネという名の場所にやって来た。

彼はペトロとヤコブとヨハネを伴って行き、彼らに言った、「わたしの魂は死ぬほどに深く悲しんでいる。ここにとどまって、見張っていなさい」。

すると彼は言った、「アッバ、父よ、あなたにはすべてのことがおできになります。この杯をわたしから取り除いてください。それでも、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」。

やって来て、彼らが眠っているのを見つけて、ペトロに言った、「シモンよ、眠っているのか。一時間も見張っていられなかったのか。あなた方は誘惑に陥らないよう、見張って、祈っていなさい。霊はその気でも、肉体は弱いのだ」。

そして彼らは、彼に何と答えたらよいか分からなかった。[注釈 3]

この説では、原形伝承ではイエスが1度しか祈っていなかったとされているが(ルカ22:39-46参照)、マルコが2系統の伝承を結合した際にイエスが祈った回数を3回に増やし、「再び離れて行き、同じ言葉で祈った」「三度目にやって来た」という文章を付け加えたとされている[5]

なお、レイモンド・ブラウンのようにこの説を否定する聖書学者もいる[16]

血の滴りのような汗

血の汗をかくイエス

『ルカによる福音書』では、イエスが熱烈に祈ったためその汗が血の滴りのように地面に零れ落ちたという。一説では、これがイエスが極度のストレス血汗症になったことを意味する[17]。ただし、「血の滴り」を直喩として捉える解釈もあり、この文句は単に「イエスは大いに汗をかいた」と意味するという見解もある[18]。この説では、ルカがイエスの汗のかいた姿を激しい競技に挑むアスリートに例えているとされている[19][20]。そもそも「もだえ苦しみ」と訳されるギリシア語の単語「アゴーニア」(ἀγωνία)には試合(アゴーン、ἀγών)の前に準備する選手が経験する「緊張」という意味も込められているいう指摘がある[21][22]

なお、この句を含まない写本も多く、教父の時代からしばしば話題になっていた。実際にはこの文章を基にイエスを「不幸を冷静に耐えることもできない惨めな人」と批判したユリアヌス帝に対して、アレクサンドリアのキュリロスが『ルカ福音書』にはそのような句はないと主張したが、キュリロスを引用したアンティオキアのセウェルス(538年没)は「アレクサンドリアにある写本にはないが、アンティオキアや他所の写本にはあって、これについて言及する教父もいた」という旨の指摘を補足した。なお、2世紀に生きたユスティノスエイレナイオスの著作にはこの句への言及と見られる箇所があり、少なくとも当時からこれを含む写本があったことがうかがえる。今でもこの句に関して聖書学者の意見が分かれており、天使に慰められ苦しみもだえるイエスがあまりにも貧弱に見えるため一部の写本では削除されたとする説と、イエスの肉体性を否定する仮現説に反対するために追加されたとする説が挙げられている[23]

現在

万国民の教会にある祭壇と岩(エルサレム)
ゲツセマネの洞窟

オリーブ山の西麓には「万国民の教会」(英:Church of All Nations)と呼ばれるフランシスコ会の教会があり、福音書にみられるゲツセマネの園と比定されている。教会内にはイエスが祈ったといわれる岩が祭壇の前にある。元々この場所にあった教会(4世紀後半創建)は8世紀頃に起こった地震で倒壊して、十字軍時代に新たな教会が建てられるも1345年以降に廃墟になった。現在の教会は1919年から1924年にかけて建てられたものである[24][25]

ここから90メートル離れた場所にはイエスが逮捕された場所とされる洞窟があって、洞窟の壁には搾油機の跡と見られるくぼみ(切り込み)がある。考古学者のジョアン・E・テイラー(1995年)は、この洞窟こそがイエスたちが滞在したゲツセマネ(アラム語では「オリーブの油搾り」)であるという説を唱えている[26][27]

この場面を扱った作品

イエスの生涯を題材にした映画ではゲツセマネでの祈りが定番と言えるほど描写される場合が多く、ここでは代表的な例のみを取り上げる。

脚注

注釈

  1. アラム語で「父」の意。
  2. ペトロの本名。「ペトロ」(Πέτρος、ペトロス)はギリシア語で「岩・石」の意味で(アラム語では「ケファ」)、イエスによって付けられたあだ名である。
  3. 電網聖書のテキストに基づく。

出典

  1. マルコの福音書 14章32~42節(電網聖書
  2. ヨハネの福音書 14章20~24、27~33節 (電網聖書)
  3. Murphy-O'Connor, Jerome (2012). Keys to Jerusalem: Collected Essays. Oxford University Press. pp. 81-82.
  4. Brown, Raymond E. (1994). The Death of the Messiah: From Gethsemane to the Grave. A Commentary on the Passion Narratives in the Four Gospels, Vol. 1. Doubleday. pp. 219-220.
  5. Murphy-O'Connor, Jerome (2012). Keys to Jerusalem: Collected Essays. Oxford University Press. pp. 84-91.
  6. Holleran, J. Warren (1973). The Synoptic Gethsemane. A Critical Study. Università Gregoriana Editrice. pp. 130-145.
  7. Thiel, Rudolf (1938). Drei Markus-Evangelien. De Gruyter. p. 23.
  8. Hirsch, Emanuel (1951). Die Frühgeschichte des Evangeliums, I. Das Werden des Markus-Evangeliums. Vandenhoeck & Ruprecht. pp. 156. 157.
  9. Kuhn, Karl Georg. "Jesus in Gethsemane." Evangelische Theologie 12 (1951-2). pp. 266-267.
  10. Benoit, Pierre (1962). "Les Outrages À Jésus Prophète." in Neotestamentica et Patristica, Festschrift O. Cullman. Brill. 103 n. 8.
  11. Boismard, Marie-Emile (1972). Synopse des quatre Évangiles en français, vol. II. Cerf. pp. 392-393.
  12. Holleran, J. Warren (1973). The Synoptic Gethsemane. A Critical Study. Università Gregoriana Editrice. pp. 144.
  13. Léon-Dufour, Xavier. "Jésus à Géthsemani: Essai de lecture synchronique." Science et Esprit 31 (1979), p. 251.
  14. Stanley, David (1980). Jesus in Gethsemane: The Early Church Reflects on the Suffering of Jesus. Paulist. pp. 108-111.
  15. Murphy-O'Connor, Jerome (2012). Keys to Jerusalem: Collected Essays. Oxford University Press. pp. 83-85.
  16. Brown, Raymond E. (1994). The Death of the Messiah: From Gethsemane to the Grave. A Commentary on the Passion Narratives in the Four Gospels, Vol. 1. Doubleday. pp. 220-221.
  17. Zugibe, Frederick T. (2005). The Crucifixion of Jesus: A Forensic Inquiry. Rowman & Littlefield. pp. 13-15.
  18. Johnson, Luke Timothy (1991). The Gospel of Luke (Sacra Pagina Series, Volume 3). The Liturgical Press. p. 352.
  19. Voorwinde, Stephen (2011). Jesus' Emotions in the Gospels. A&C Black. pp. 146-148.
  20. Wills, Garry (2008). What the Gospels Meant. Penguin. p. 129.
  21. Brown, Raymond (2008). Christ in the Gospels of the Liturgical Year. Liturgical Press. p. 177.
  22. Rolheiser, Ronald (2016). The Passion and the Cross. Hachette UK. p. 20.
  23. Willker, Wieland (2015). A Textual Commentary on the Greek Gospels, Vol. 3: Luke. pp. 544-557.
  24. Valdes, Giuliano (1998). The Land of Jesus. Casa Editrice Bonechi. pp. 83.
  25. Jerusalem: The Basilica of the Agony (Church of All Nations)”. Israel Ministry of Foreign Affairs (2000年3月15日). 2019年8月29日閲覧。
  26. Taylor, Joan E. The Garden of Gethsemane: Not the Place of Jesus' Arrest. Biblical Archaeology Review 21:4 (1995). pp. 26-35.
  27. Murphy-O'Connor, Jerome (2012). Keys to Jerusalem: Collected Essays. Oxford University Press. pp. 103-106.

参考文献

関連項目

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