三井砂川炭鉱

三井砂川炭鉱(みついすながわたんこう)とは、北海道空知郡上砂川町に存在した炭鉱。閉山時の正式名称は三井石炭鉱業株式会社砂川鉱業所。最盛期には多くの坑口を持ち、北海道の三井系炭鉱では主力級の炭鉱だった。1960年代からは大深度からの採炭を進めて生産性の向上に努めたが、1987年に閉山した。

旧三井砂川炭鉱中央立坑櫓。閉山後は地下無重力実験施設として使用された(2006年5月撮影)
「総力の発揮/業績の向上」と書かれた三井砂川炭鉱の標語塔(2009年9月撮影)

歴史

  • 1887年(明治20年) - 北海道庁技師の坂市太郎山内徳三郎により石炭層発見
  • 1896年(明治29年) - 北海道炭礦鉄道により、上砂川地区初めての炭鉱が開坑(のちに三井鉱山により買収される)
  • 1896年(明治29年) - 三井鉱山合名会社により、上砂川地区の本格的な炭田調査が開始される
  • 1911年(明治44年) - 上砂川地区の鉱業所創設に備え、三井鉱山株式会社が設立される
  • 1914年(大正3年) - 三井鉱山により砂川鉱業所創設、大規模な開発がはじまる
  • 1918年(大正7年) - 上砂川地区で生産された石炭を運搬するため、砂川-上砂川間に鉄道敷設(のちの函館本線上砂川支線)
  • 1936年(昭和11年)1月14日 - ガス爆発事故が発生、死者・行方不明者21人[1]
  • 1940年(昭和15年) - 日中戦争の軍需需要により、約160万トンの年間採炭量を記録する
  • 1949年(昭和24年) - 砂川町(現:砂川市)と歌志内町(現:歌志内市)の一部が分離独立し、上砂川町開町
  • 1953年(昭和28年) - 第一立坑櫓建設
  • 1958年(昭和33年)6月9日 - 第2坑でガス爆発事故が発生。死者10人、重軽傷者3人[2]
  • 1964年(昭和39年) - 日本初の本格的な水力採炭を一部で開始
  • 1967年(昭和42年) - 中央立坑櫓建設(後に地下無重力実験施設に転用される)
  • 1970年(昭和45年)12月15日 - ガス爆発事故が発生し死者・行方不明者19名[3](後述の3人を含む)。爆発後に発生した坑内火災が収まらなかったため、同月18日、行方不明者3人を残したまま坑口の密閉処理を決定した[4]
  • 1973年(昭和48年) - 三井鉱山から石炭部門が分離独立し、三井石炭鉱業株式会社が設立される
  • 1974年(昭和49年) - ガス爆発事故が発生し15名死亡
  • 1974年(昭和49年) - 露天掘り開始
  • 1974年(昭和49年)11月8日 - 火薬取扱所から発破用のダイナマイト75本、雷管15個が盗難にあう[5]
  • 1981年(昭和56年)6月 - 崩落事故が発生し1名死亡[6]
  • 1987年(昭和62年)7月14日 - 砂川鉱業所閉山[7][8]
  • 1991年(平成3年) - 財団法人宇宙環境利用推進センターによる地下無重力実験センターが開設される[9][10]
  • 1994年(平成6年) - 函館本線上砂川支線廃止
  • 2003年(平成15年) - 地下無重力実験センター閉鎖[11]、第一立坑櫓撤去(中央立坑櫓は現存)

スポーツ

三井砂川鉱業所の「運動会」は1922年(大正11年)に第1回が行われ、中断をはさみながら戦後まで継続して行われた[12]。鉱業所の年中行事では最大の、家族を含めて全員参加の行事であった[12]。「運動会」には大衆的・親睦会的な「一般種目」と、陸上競技などの「選手競技」があり[13]、大衆的なレクリエーションと高度なスポーツ的活動の両側面があった[14]。「一町一企業」という特殊事情はあるが、企業内のスポーツ活動が、上砂川町の町民全体がスポーツに親しむ環境を作ったという評価もある[14]

「運動会」の職場対抗競技は、初期には過熱のあまり職場間の対立に至り、一時停止されたこともあるというが[13]、対外試合や[13]応援団の組織と華やかな応援合戦などを通して「三井砂川」の一員としての意識を高める効果があったという[14]。1935年に赴任した鉱業所次長の久留貞次郎はスポーツ振興に力を入れ、ベルリンオリンピック金メダリストの田島直人や、橋川雄一(走高跳)、ベルリンオリンピック出場の青地球磨男(中距離走)など大学陸上部出身者が配属された[15]。なお、大学陸上部出身者の「運動会」への出場は制限され、記録や指導にあたっていたという[15]

戦争下の1944年(昭和19年)・1945年(昭和20年)は運動会も中断されたが[16]、1946年(昭和21年)に戦後第一回の「大運動会」が、会社や労働組合・職員組合などの代表者会議による企画運営で開催された[17]。トラック・フィールド種目の「選手競技」も選手権大会並に充実していた[18]。「大運動会」は1959年(昭和34年)から10年間の中断を経て(中断の理由は不明。なお各町内ごとに小規模な「運動会」は開催されていたという)[19]、1969年(昭和44年)に復活したが、町内対抗のレクリエーション的な性格のものとなっている。鉱業所全体の行事としての「大運動会」は1976年(昭和51年)まで継続されたとみられる[19]

地下無重力実験施設

閉山後、立坑と立坑櫓を利用した地下無重力実験施設(財団法人宇宙環境利用推進センター)の誘致に成功。施設では、700m以上の落差を利用した無重力(微小重力)実験が繰り返し行われた。落下実験はカプセルを櫓の上から落下させるものだった。

1回当たりの経費は200万円以上でスペースシャトル等を利用するよりは安価であるが理解が得られず、また、実験結果を工業・商業的に応用することが難しいなどの状況から利用率は低迷し、2003年に閉鎖された。 閉鎖後、宇宙開発の実験場としての貢献から、後に小惑星イトカワのクレーターのひとつに上砂川(Kamisunagawa)の名が用いられることとなった。

脚注

注釈

    出典

    1. 「死者二十、重軽傷十八人、上砂川鉱の事故」『北海タイムス』1935年(昭和10年)1月16日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.682 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
    2. 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、129頁。ISBN 9784816922749。
    3. “三井砂川登川坑ガス爆発”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1970年12月19日)
    4. 不明の三人残し坑口密閉へ『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月19日朝刊 12版 22面
    5. 「マイト75本と雷管15個盗難 北海道・三井砂川鉱」『朝日新聞』昭和49年(1974年)11月8日夕刊、3版、9面
    6. “三井砂川鉱 1人死亡2人生き埋め”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1981年6月16日)
    7. “事業所で再出発 閉山の三井砂川鉱業所 あすから撤収作業”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年7月15日)
    8. “三井砂川鉱閉山から1カ月”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年8月14日)
    9. “上砂川の無重力実験センター、開業大幅に遅れ-「10秒」達成できず。通産省が原因調査”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1991年9月12日)
    10. “上砂川町の地下無重力実験センター、開業1年。新手の研究続々-海外からの利用も。将来の資源確保へ微粉炭を効率燃焼”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1992年10月12日)
    11. “最後の落下実験で研究者ら「お別れ」 無重力センター”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年2月4日)
    12. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 98.
    13. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 99.
    14. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 107.
    15. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 100.
    16. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 106.
    17. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 103.
    18. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 104.
    19. 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 105.

    参考文献

    関連項目

    外部リンク

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