中野武二
経歴
1897年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1902年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1904年に第一高等学校へ進む。二塁手として活躍し、守備の良さから当時難攻不落と言われた旅順要塞にちなんで「老鉄山」と呼ばれた[2]。1905年から2年間、主将を務めた[2]。
東京帝国大学に進学後も第一高校野球部にコーチとして残り、内村祐之、中松潤之助のバッテリーを育てた[2]。
また当時は選手が審判を務めており、中野の明快で公平なジャッジには定評があり、当時日本球界最高の対戦と言われた早慶戦や国際試合でチーフ・アンパイアに起用される事も多かった[2]。
1919年には、1921年までに芝浦に12000坪の鉄筋コンクリート製の球場を作ると同時にそこを拠点とするプロ球団「東京野球倶楽部」を設立する構想を立てたが実現することはなかった[3]。
脚注
- 中野武二 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- 『野球殿堂 2012 The Baseball Hall of Fame』(2012年、ベースボール・マガジン社)、P.37
- 大平昌秀著 異端の系譜 p115
関連項目
外部リンク
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