峰崎部屋
2代峰崎時代
沿革
初代峰崎の養子だった行司の初代木村銀治郎が二枚鑑札で2代峰崎を襲名、1899年(明治32年)以降は年寄専従となり、峰崎部屋を経営した。その後、後継者争いの勃発した尾車部屋の力士らを一時預かったものの2代峰崎は1922年(大正11年)に死去。峰崎部屋の弟子たちは、同年5月場所を最後に現役を引退した4代尾車(元関脇・大戸平)が再興した尾車部屋に戻った白岩の一統と、片男波部屋を経て伊勢ノ海部屋に預けられた三杉磯の一統とに分かれていった。
力士
※印は尾車部屋から移籍してきた力士。
幕内
7代峰崎時代


沿革
1986年(昭和61年)9月場所限りで引退し、その後は放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた年寄・7代峰崎(元幕内・三杉磯)が、1988年(昭和63年)12月に放駒部屋から分家独立して東京都練馬区田柄に峰崎部屋を創設した。
伊勢ノ海部屋・春日野部屋・中村部屋と共に、長らく外国人は入門させないという方針を採っていたものの、2006年(平成18年)3月に青森山田高校のモンゴル人留学生・透川が入門し、部屋初の外国人力士となった。
2012年(平成24年)5月24日、同じ一門の花籠部屋が経営難を理由に閉鎖されたため、15代花籠(元関脇・太寿山)ら花籠部屋の所属年寄や力士ら13人を引き取った。
部屋の創設以降、「叩き上げ力士」の育成に力を入れながらも、自部屋の生え抜きとなる関取は育っていないまま、花籠部屋との合併により関取経験者の荒鷲が所属力士に加わり、2012年(平成24年)9月場所での再十両昇進と同時に峰崎部屋から初めての関取誕生となった。荒鷲は2014年(平成26年)5月場所で新入幕を果たし、峰崎部屋から初めての幕内力士にもなった。
7代峰崎は2021年(令和3年)5月に65歳となって日本相撲協会を停年(定年)退職するため、同年4月1日の理事会で峰崎部屋閉鎖が承認され、7代峰崎、所属力士5人、行司・3代木村銀治郎は芝田山部屋へ、15代花籠と行司・木村光之助は高田川部屋へ、行司・木村一馬と呼出・弘行、同・正男、床山床明は西岩部屋へ転属することになった[1]。
エピソード
- 2012年(平成24年)11月に実施されたプロ野球12球団合同トライアウトでは、トライアウトの受検選手に対する新弟子募集の勧誘活動を行って話題となった。翌2013年11月に実施された12球団合同トライアウトでも同様の勧誘活動を行った。
- 2013年(平成25年)10月には所属行司・木村堅治郎(現・銀治郎)の発案により、新弟子勧誘のために各所で配布するチラシを制作した。デザイナーにデザインを依頼して、横綱のイラストが描かれたものと、入門から横綱への昇進までの相撲人生を双六形式として表現した内容のものが各1000枚ずつ製作された。チラシの裏面には力士の給料についてや現役引退後の事情なども掲載されていた。[2]
脚注
- “峰崎部屋閉鎖を承認 力士全5人は芝田山部屋に転属 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com(2021年4月1日). 2021年4月1日閲覧。
- すごろくで勧誘チラシ 峰崎部屋 日刊スポーツ 2013年10月23日記事
- “峰崎部屋で暴力行為が発覚 被害者側はすでに引退”. 日刊スポーツ. (2018年3月18日) 2018年3月29日閲覧。
- “峰崎部屋の加害側力士が休場 元弟弟子に暴力”. 朝日新聞. (2018年3月19日) 2018年3月29日閲覧。
- “十両・貴公俊、出場停止処分も検討 春場所中の暴行問題”. 朝日新聞. (2018年3月27日) 2018年3月29日閲覧。
- “貴乃花親方2階級降格で年寄に 3カ月で月給半額”. 日刊スポーツ. (2018年3月29日) 2018年3月29日閲覧。