府屋

府屋(ふや)は、新潟県村上市北部の地名[2]。かつての同県岩船郡山北町(さんぽくまち)北部に位置する。

府屋
府屋の位置(新潟県内)
府屋
府屋
府屋の位置
北緯38度30分27秒 東経139度32分0秒
日本の旗 日本
都道府県 新潟県の旗 新潟県
市区町村 村上市
面積
  合計 9.3 km2
人口
  合計 6,137人
  密度 660人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
959-3907
市外局番 0254
ナンバープレート 新潟

歴史的背景と府屋の地名

縄文・弥生

府屋を流れる大川右岸の河岸段丘上には、縄文時代後期〜晩期の上山遺跡(巻貝形土製品・足型付き土版が出土)や竹ノ下遺跡古代中世)があり、上山頂上の南約120メートルに位置する大川左岸の砂丘中央付近には縄文時代前期の府屋遺跡フラスコ状土坑[3]・建物跡・吹浦式土器・石製釣り針等が出土)が所在する。また、砂丘南端には間ノ内遺跡弥生時代の山草荷式土器のが出土)がある[4][5]。なお、府屋遺跡周辺は縄文時代の埋蔵文化財包蔵地となっている[6]

古代(城柵・官衙)

2008年(平成20年)に新潟県立歴史博物館等が示した新潟県内における古代都岐沙羅柵の推定候補地[7]

「府屋」の地名が知られるようになったのは『日本書紀』の斉明天皇4年(658年)に「授都岐沙羅柵造闕名位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下」とあることから、古代城柵の一つである都岐沙羅柵が府屋にあったのでは、と言うことによる[2]

都岐沙羅柵の所在地について『山形県史』には「断定の資料はないが、鼠ヶ関[注釈 1]から山北町地内北部が適地。鼠ヶ関の湊津は評価」とし、鼠ヶ関は湊の機能面をあげ、柵は山北町北部が示されている[8]

『新潟県史』は、「山形県史にみられるように鼠ヶ関付近説が定説化。位置については磐舟柵以北の日本海沿岸地域」としている[9]

柏倉亮吉・酒井忠一は「鼠ヶ関は古代東北の三関である菊田の関(勿来の関)、白河の関と並んで文字通り鼠ヶ関の関があっただろうと言われている。弁天島の東方山麓の小部落を関と呼び、その付近に古代集落があったらしいことが伝えられている。この関は北陸と出羽口を位置にあり、古代東北の開拓時代蝦夷を防ぐ城柵的性質を帯びていたものと考えられている」と記しているが、いずれも地元の伝聞としている[10]

高橋崇は「新潟県・山形県境あたりか」とし[11]工藤雅樹は「この時期の日本海側の城柵は大きな川が海に注ぐところが一般的」「都岐沙羅柵の新潟県北部あるいは山形県庄内地方の河口付近」とし[12]、渡部育子もまた「山形県史の見解はおおむね妥当」と述べている[13]

具体的に府屋の地名が記されたのは、新野直吉の「都岐沙羅柵は勝木・府屋などの地も充分に柵的基地の所在地たり得る。」がある[14]

2008年(平成20年)に新潟県立歴史博物館北海道開拓記念館[注釈 2]東北歴史博物館が合同開催した企画展『古代東北世界に生きた人びと-交流と交易-』の展示図録では、新潟県内の城柵・官衙として渟足柵磐舟柵と考えられる新潟市沼垂と村上市岩船の位置に四角い赤印がつけられ、さらに北上した県境の府屋付近に都岐沙羅柵と考えられる赤印がつけられている[7]

高橋富雄は「一般に奥羽における城柵の配置は、蝦夷に最も接近して、すぐその南の要衝にあたるような地形を占める。淳足・磐舟両柵によって目標に蝦夷地が、秋田や能代であるというようなことは考えられない。」と記している[15]

『山北村郷土史』では「都岐沙羅柵は海岸を点綴して設けられた前進基地」としている[16]

高橋富雄と『山北村郷土史』の2論は「蝦夷に最も接近し、その要衝となる地形、かつ、海岸線に位置した前線基地」となり、庄内平野の蝦夷を見据えた柵の造営場所を匂わせている。

横山貞裕は、「和銅2年(709年)、出羽で蝦夷の反乱が起きた。征越後将軍佐伯石湯が征伐に行った。越前・越中・越後・佐渡の船百艘が出羽征狄所に送られた。その時の船の3分の2、長さ11メートルが赤川の上流、藤島町で見つかった。全長は15メートルか。幅1.2メートル、深さ54.5センチメートル、板の厚さ4.5センチメートル、材質は大杉、割竹型のくり船。この頃は波の静かな日に出発、夕方には次の目的地都岐沙羅柵に着き、1日かけて出土地に着けた。漕ぎ方は両側にかいを以て並ぶ。吃水船が浅く速力はあまり出ないが安定性がある」と、当時の舟について記している[17]。横山貞裕に従えば、磐舟柵付近から府屋の浜までの約40キロメートルを、1日で航行できたことになる。なお、『山北村郷土史』および横山貞裕は、都岐沙羅柵を府屋の隣の、山形県鼠ヶ関附近としている。

米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関
米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関

鼠ヶ関について長井政太郎は「部落は陸繫島辯天岩と本土とを結ぶ五、六米の高さを有する砂嘴の上に發生したもので、東方の山地との間の三角形の低湿地は水田に利用せられてゐる。恐らく砂嘴の爲に堰られた潟湖が次第に鼠ヶ關川に依つて埋没せられたものらしい。部落より二、三米低い。」と述べ、鼠ケ関の三角形状水田地帯は潟湖であったとしている[18]。また、田中啓爾監修の『郷土新書(第6)』には「加茂台地から鼠ヶ関までの海岸と北の吹浦海岸は磯浜であるが、ほとんど一直線で出入りにとぼしく、頁岩を貫いて噴出した玄武岩の蔭に小さな浜があるのみ」「小さな湾が油戸・由良・小波渡・鼠ヶ関等に見られる。」とあり、鼠ケ関の海岸は磯浜であることを指摘している[19]

長野正孝は「日本の船は平底。船は浜に引き上げるもの。修理も浜に揚げて行う。」と説明しているように、浜は海運に重要な役割であることを示し、暗に岩場の多いところは船運には不向きなことを示唆している[20]

熊谷公男は「柵は周囲に木柵を巡らし、移民である柵戸と在地の住民である柵養の蝦夷を附属させ、柵造が柵附属の住民を統括する施設。」「柵は軍事的機能を持ち、柵戸や柵養蝦夷がその兵力供給源であり、開拓農民の側面もあった。」「柵は交易センターの性格と行政機能もあった」「出自を異にする住民が同じ集落で生活していくためには統率者柵造の存在が不可欠」「淳足柵は郡山遺跡のタイプである可能性は否定できないが、都岐沙羅柵を郡山遺跡と同タイプの「柵」とするのは無理であろう。」と記している[21]

工藤雅樹は「城柵の任務は中央官人が饗給、征討、斥候という任務を負って赴任し、蝦夷と接触する窓口でもあった」とする[22]

これらを予測していたのか、田中圭一は「府屋は古代における国府の機関が置かれたのではないか。この問題は私達が一度ならずして考えたことであった。」と記してはいるが、国府機関の都岐沙羅府とは書いていない[23]

アイヌ語で解釈できる地名 都岐沙羅

蝦夷について埴原和郎は「蝦夷が狩猟を主な生業としたことや、顔や体つきがーおそらく都の北アジア系の人の人々からみてからみて―特異であったことが伺える。(中略)蝦夷はどうやら在来の縄文系集団の子孫ではないかと思える」「「日本書紀」に書かれているようにエミシが都人とは生活様式も姿かたちも大きく違っていたとすれば、それは文化的には縄文系文化の系統を引き継いでおり、遺伝的には混血の割合がゼロ、ないしはごくわずかだったためと思える」と記している。(埴原和郎 日本人の誕生 歴史ライブラリー1 吉川弘文館1998 p201~203)

熊谷公男は「アイヌ民族の基礎となるアイヌ文化の形成時期は、現在では十三世紀ごろと見るのが普通である。そうすると古代蝦夷は、アイヌ民族が形成される以前に列島の北方地域に居住していた人々と言うことになるから、そもそも蝦夷=アイヌという等式は成り立ちえないのである。」(熊谷公男 古代の蝦夷と城柵 吉川弘文館 2004 p214)と記している。

北海道遺跡分布図には2022年8月現在、 縄文遺跡だけでも7486件ある。(生涯学習推進局文化財・博物館課 - 教育庁生涯学習推進局文化財・博物館課  hokkaido.lg.jp)

吉崎昌一は「その地名がアイヌ語によって解釈出来るということと、近世アイヌが実際そこへ行ってアイヌ語で地名を付けたかは別。」「アイヌ語は日本でかつて使われていた古い言葉の面影を残しているのだから、地名がアイヌ語で解釈出来たとしても不思議はない。「本州に地名が付けられたのは、古い段階ではまず縄文文化のステージ、続いて弥生文化の頃だ。土器文化になって、東北地方と北海道の一部の文化が共通する文化がずっと続くね。それから続縄文文化にはいって、北海道の後北文化がずっと本州へ南下する段階がある。そのときつけられたもので、以上はいずれもアイヌ成立以前で、たまたまそれらの地名がアイヌ語で解釈出来るというものだ。アイヌが付けたと言うのは、実際アイヌがそこへ行くか住むかしかない場合だ。」と述べている。(シンポジュームアイヌ―その起源と文化形成 埴原和郎 藤本英夫 浅井亨 吉崎昌一 河本本道 乳井洋一 北海道大学図書刊行会 1973年  p200 P201)​

増田隆一は「オホーツク人のミトコンドリアDNAハプログループは、A(8.1%)、B(2.7%)、C3(5,4%)、G1(24,3%),M7(5.4%)、N9(10.8%)、Y(43,2%)であった。」「海外の既報の研究によると、ウリチ、ニヴフ、ネギタールなどアムール川下流域の現代集団においても、ハプログループYが存在することが分かっている。」「ニヴフにおいてはハプログループY頻度が極めて高い(約66%)。」と報告している。加えて、 sato et al 2009aより として 図2 「これまでの分析でオホーツク人と北海道縄文系との間の遺伝子流動と変遷」を掲載し、「北海道縄文人→続縄文人/擦文→アイヌ←オホーツク人↔アムール河下流域集団の祖先」を図を紹介している。(増田隆一 遺伝的特徴から見たオホーツク人・大陸との間の交流 北海道大学総合博物館研究報告.6.103 -108 2013-03)

篠田謙一は「縄文時代にはなかったハプログループYがオホーツク文化人によってもたらされ両者の混合によってアイヌが誕生した。と、図7―5 「北海道のミトコンドリアDNAハプログループの変遷」を円グラフで表し説明している。そのグラフには、縄文~続縄文・オホーツク文化・近世アイヌ・現代アイヌのミトコンドリアDNAハプログループの割合が示されて、縄文~続縄文にはYは見られず、オホーツク文化人のYが43%、近世アイヌのYが31%、現代アイヌのYが19%と示されている。なお、縄文~続縄文 [5世紀] オホーツク文化 [9世紀] 近世アイヌ、とそれぞれの間には、いつ頃かの文字がある。また、縄文~続縄文 [7世紀] 擦文 {13世紀} アイヌと、アイヌ文化の始まりを13世紀からとしている。(篠田謙一 新版日本人になった祖先たち NHK出版 2019年4刷 p208~209)

安達登は『学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像』の研究概要に「考古学的に、北海道においては縄文時代終末期~続縄文時代になると、若いイヌを解体したことを示す証拠が急に出現しだす。類似の事例は続縄文時代並行期のサハリンにおいても見られ、イヌを食用としたことを示す証拠と考えられている。一般に、狩猟のために重要な役割を果たすイヌは狩猟民の間では大切に扱われるが、それを食用に供するという大きな変化は、単に文化や習慣の移入だけでは説明が難しい。ハプログループの変遷と考古学的知見を併せ考えると、縄文時代終末期~続縄文時代に、北海道在来集団とは遺伝的背景が異なる人類集団が、ユーラシア大陸北東部から北海道に渡来してきた可能性があるものと考えられる。」と指摘している。(安達登 学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像  KAKEN 2011年度実施実績報告書 研究領域番号 23570280 研究機関 山梨大学 研究代表者 安達 登 )

斎藤成也は「ミトコンドリアDNAのデータからみて、アイヌ人に系統的に最も近いのは、樺太北部に居住するニブヒ人だった。」と記している。(斎藤成也 核DNA解析でたどる日本人の源流 河出書房新社 p178)

ちなみにオホーツク文化の南下について吉崎昌一は「紀元五~七世紀にかけて、小氷河期とも言われた寒い時期ありますね。」「気候の寒冷化で流氷の分布が変わり、海獣を追って沿岸のフィッシャー・ハンターが南下してくる理由に説明がつく。」と話している。(シンポジュームアイヌ―その起源と文化形成 埴原和郎 藤本英夫 浅井亨 吉崎昌一 河本本道 乳井洋一 北海道大学図書刊行会1973年​p46)

八木光則は「後北C2・D式の分布図とペつ系地名の分布図とを比較すると、強い相関関係は認められない。」「続縄文文化の濃密な下北―盛岡は、特にアイヌ語系の濃密な地域となっていない。また、ナィ地域が濃密な秋田県南部では後北C2・Dは出土していない。」「ぺツ系地名の形成時期については縄文時代後期十腰内1式以降の環状列石を造り上げた地域との関係が最も整合的と考えられる。」「十腰内期から続縄文後半期の後北C2・Dの分布時期まで、アイヌ語系地名は温存され長い年月の間に定着していいたものと考えられる。」「ナィ系地名はぺツより古いから、縄文時代後期以前に形成されたことになる。」と記し、(八木光則 アイヌ語系地名と蝦夷 古代国家と北方世界 小口雅史 同成社 2017 p256~257要約) 「東北地方の環状列石は、縄文時代後期の初期~縄文時代晩期につくられたが、その範囲はベツが多く分布する範囲と重なる。このことからペつは縄時代後期~晩期に形成されたと考えられる。ぺツはナイの内側に分布している。ぺつの形成は四世紀よりも前 (P159~160要約)」「ナイ・ベツのアイヌ語系地名は、縄文時代に形成されたと考えられる。」と記している。(八木光則 縄文時代にさかのぼるアイヌ語系地名 環状列石ってなんだ 御所野縄文博物館編新泉社2019年 p163) 

都岐沙羅について山田秀三は「都岐沙羅はアイヌ語地名に多いサラ(sar葭原)が付いた名かも知れません。だが、トキサラ(to-Kisara沼の耳・耳)だったのじゃないでしょうか。沼の一部がくびれたようになったところをトキサラと呼び、北海道の諸地に地名が残っています。」「都岐沙羅の柵はくびれ込んだトキサラ(沼の耳)のところを要害として築かれたのではないでしょうか。」(山田秀三著作集1アイヌ語地名の研究1982年草風館p122~123)と記し、知里真志保は『地名アイヌ語小辞典』で、「ト・キサラ「to′-kisar,-a  とキサㇽ 原義‘沼耳’: 沼の奥が耳のように陸地に入り込んでいる部分。」と、北海道豊頃町の湧洞沼の線画図を描いて説明している。(地名アイヌ語小辞典1956年北海道出版企画センターp130)

しかし、埴原和郎・熊谷公男・吉崎昌一・八木光則の論に加え、増田隆一・篠田謙一・安達 登・斎藤成也や北海道縄文遺跡から、都岐沙羅がアイヌ語で解釈できる「トキサラ」であったとしても、吉崎昌一の言うように、それは最初に住んだ縄文人の言葉であり、埴原和郎が言う縄文人の末裔である蝦夷の言葉につながることを示唆している。

中世

『越後瀬波郡絵図』に「ふる城」として描かれている大川城跡、平時の居館である藤懸り館跡がある[24]江戸時代の地理学者、小田島允武は「大川城 海府郷府屋驛山中ニ在、城主大川三郎二郎大川駿府守」と記している[25]

『日本城郭体系第7巻』の大川城には、「新潟県の最北端、山北町の中心地府屋は、大川が日本海に注ぐ河口にある商業の町。中世には付近一帯を支配した豪族大川氏の城下集落で、町並みの東方の「古舘」「古舘山」「高館山」などには、大川氏の館や山城跡がよく残る。居館跡は市街の東はずれ、大川橋南岸の河岸段丘端にあり、北東辺は断崖、西南辺は空堀で限られた方100mほどの区域と、空堀の外方に突き出した広い三角状の郭からなる。館の南端の山裾には豊かな水源がある。すぐ上には80m四方ほどの複雑な階段状の区画を持つ郭があって、南から西へ土塁を巡らし、館の背後を厳重に固めている。ここから南東に屹立する「古館山」へ幅3m余りの城道がゆっくりと上がっている。「古舘山」は館跡との比高50m程の半独立峰で。尾根は北端の主郭を初め、堀や切崖で区分された四郭を並べている。その東側に広い腰郭を伴った堅固な備えを固め、各郭にはそれぞれ土塁が備わっている。「古館山」と館背後の防禦陣地は、共に館に直結した強固な後ろ盾で、三段構えの配置。縄張りの妙はすばらしく、非常の際は完全に一体となって相互の機能を補完し合い、鉄壁の守りを全うし得たであろう。「古館山」の南の尾根伝いの約1㎞の所にある「高館山」(標高130m)にも、「古館山」に匹敵する規模の山城跡が残っている。特に南から西の展望が優れており、後方警戒を兼ねた詰めの城と思われる。「古館山」と「高館山」を結ぶ尾根の中ほどに、北面が三角錐状をなす小峰があるが、山頂から山腹にかけての北面には幅2~3mの廊下状の平坦地を桟敷状に連ねた施設が認められる。これも山城遺構である。これら館・前要害・中要害・奥要害を縦深に配置した一連の城塞は、堀・土塁の用法などから戦国時代の築造とみられる。」「大川氏は南北朝の動乱時には、大川彦次郎の名が見え、北朝方(武家方)に属して小泉氏・立島氏らと行動を共にしている。本庄氏が勢域に赴く戦国時代には、同氏の被官的位置を保っていたようだ。永禄11年(1568)に本庄氏が上杉謙信と敵対するに及び、謙信に臣従して、本拠地が越後北辺にあることから、謙信の命を受けて出羽口の固めに懸命に奔走した。以来、出羽口に風雲急を告げるたびに多いに活躍した。慶長3年(1598)上杉景勝に移封に従い越後を離れた。」 と、詳細な記述がある。(日本城郭体系 第7巻 大川城 編修 平井 聖ほか 新潟県編集 金子拓男 新人物往来社 昭和55年(1980) 初版1刷 p48要約)(縄張り図は 春日, 真実、丹生, 泰雪、安孫子, 雅史、瀧口, 泰孝『大川城跡(日本海沿岸東北自動車道(国道7号朝日温海道路)関係発掘調査報告書)』公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団〈新潟県埋蔵文化財調査報告書293 図版 28/56 を参照)

『温古の栞(拾壱篇)』「古城跡乃部 府屋の古城跡」には「岩船郡小泉荘府屋(出羽境の深山より流れ出る荒川雷川合し大川と云へ海に注ぐ處なるを以て往昔は大川の驛と云り)山の古城跡は海岸に瀕し金ヶ浦山に續き一夫能防ぐ時、萬夫も進むに能はざる要害あり建仁中より土着の勇士大川某なるもの此所に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て其谷入を賜ふ後上杉家へ属し出羽口を守る天文七年五月當代三郎二郎義に依りて長尾為景尓隨へ越中國に發向し栴檀野に討死す其後丹後守重漣は謙信に仕へ忠臣の名あり天正年中主家遺跡爭への砌り景虎に加擔せしとの讒口に罹り春日山へ謀誘され景勝の面前にて自刃を賜ふ是より廢城となれり」とあり、要害のことや上杉氏との関わりを記している[26]

山形県西田川郡温海町(現・鶴岡市)の『温海町史』に「府屋には大川氏、立島には立島氏がおったが、両氏とも本庄氏や色部氏のように新米の地頭ではなく土着の古い豪族であった」とある[27]

『山北町史』には「大河氏は越後国最北端の大川谷に興起した豪族であると言わているが、建久元年(1190年)2月12日の決戦に敗れた大川兼任の嫡男・鶴太郎、二男・於幾内次郎が300騎ほどの手兵を従え越羽境に逃走し、後に、大川谷に出て蒲沢に館を設けたと言われている。」と記している[28]

また、大川氏の家系について『山北村郷土史』は「大川二郎兼仁、将長(彦次郎)、宣長(三郎二郎)、家貞(三郎二郎)、国重(駿河守)、長秀(三郎二郎)程度しか分かっていない。」としている[29]

米沢市立図書館郷土資料担当に大川氏について問い合わせた時、「横浜市在住の立島氏より高岩寺についての問い合わせがあった折、立島氏と大川氏は大川次郎兼任の子孫と伝わっている」との文書が届いたが「横浜の立島さんは、越後立島氏の子孫」とする客観的な資料は見当たらず、信頼性に乏しい。[30]

大川氏について『山北村郷土史』に「天明元年(1781年)・安永九年(1780年)と大川氏の末裔と名乗る大川新三郎が祖先の城址を尋ねて来ている。新三郎は敬之助とも称し、出羽庄内酒井左衛門家中と言うことになっており、庄内黒川に住んでいたという」との記述がある[31]

大川敬之助が祖先の城址を訪ねて来たことについて『大川古城主大略記』に「安永子年(九)中(1780年)秋発五日快晴にして、五ツ半前、大岩川村ヨリ鼠ケ關弁財天の霊場を拝し、夫ヨリ艤して、越後大川郷府屋町に至る。富樫又座衛門宅へ立寄。又座衛門先立して命旧地を見る。以下略)があり、「天明元年(1781年)辛丑九月十八日早朝、湯温海を出立、構坂、岩川、此所・住吉坂有 早田を過 鼠ヶ関を通りて原見村へ出 羽越の境テシロ山、浪間能石を見、夫ヨリ越後国へ出て 鼠喰岩の絶景なるを感眺し 岩砂の海浜を通り通り中浜村、岩崎村の両邑を通りて 一の山川艀ニ渡して 大川郷府屋町へ着きぬ。」とある。

1780年(安永9年)の記録には「城地乾ニ当り、堀切の外山ニ大川氏の墓所也とて当時畠中ニ石を積み重ね、艸茫々たる所あり。其辺りニ經塚あり。近年又左エ門建しとて石地蔵あり。土民此所を御廟堂と呼びしとぞ。(中略)此山前面ㇵ前に記スごとく、階のごとくにた、一段一段ニ屋舗跡あり。後面は山沢流して至而険阻にして、高サ数丈、屏風を立てたるがごとく、足かかりもなき(『大川古城主大略記』p.2:古文書 伏家名)」。また同文書には、河内平にある河内大明神が記されている。この社の場所を基準にし、北磁をもとに「乾」(北西)方向に線を引くと、舌状地の中ほどにある畑附近にあたる。この線上の城内に「姫の墓」もある。『広辞苑』(第5版)によれば、外山(とやま)とは、「端の山。人里に近い山」とある[32]。御廟堂のある比高6〜7メートルの舌状台地は、藤懸り館から見た端の山で人里近い山になる。

標高約14メートルの舌状台地北端と標高約16メートルの館跡端西端の間に空堀がある。これが前述、1780年(安永9年)記録にある堀切のこと。堀切は土橋でつながっていた。舌状台地は11に区分けされ小さな堀が見られる。大川氏の墓所は区分けされた中でも広い。標高約7メートルの墓所西下について田中圭一は「建造物については明らかにしえないが、地割から見て、東西、南北共約20間ほどの区画が認められるのでここに居館の主屋が建てられていたと考えられよう」と記している[33]

立島氏・大川氏とは『色部文書』「越後国色部惣領秩父三郎長倫ながとも申す、瀬波郡(岩船)謀叛人小泉左衛門二郎持永(村上市)・大河彦次郎将長(山北町府屋)・立島彦三郎実名を知らず(山北町立島)以下の輩のこと、勅命に任せ、且は守護御代官屋敷与一の催促により、長倫子息宝堂丸一族相共に、七月十二日持長城に押寄せ、かの党類等を誅落し訖(おわ)んぬ。次に将長大河樺沢城に楯籠たてこもるの間、(以下略)」にある大川氏と立島氏のこと[34]

ちなみに『山北村郷土史』には「大川郷誌によれば、大谷沢は大川氏の足軽の地であったと言われている」とある[35]

立島氏について『山北村郷土史』は『慶長越後絵図』に触れ、「立島氏所領であるべきところが、大川氏の所領として記載されており、しかも立島氏の名前が全然出てこないのはどうしたことであろうか。」「文禄・慶長期には立島氏なる者は存在しなかったのであろうか。伝承では、上杉氏会津転封の際、大川氏と共にこれに従って会津に赴いたことになっているのだが、(中略)色部文書の中には、立島彦三郎なる者の名が見えていて、大川彦次郎将長門ともに本庄持長を助けて事をなしている。(中略) 彦次郎・彦三郎の名前からして、両者は兄弟だったのか(中略)地理的な位置からしても立島氏は大川氏の一族であって、検地の際は何らかの理由で、大川氏名義で公文書に記したのかと推定。[36]」「菩提寺といわれる北田中の香積寺には位牌及び遺品が伝えられているという。[37]」と記している。

立島氏について『温古の栞(貳拾九篇)』の「立島山の古城跡」には「岩船郡小泉莊立島山の古城跡は海岸の眺望に富み要害無双の城地なり建武年中の豪族立島兵庫なるもの此處に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て當谷入を賜ふ(以下略)」とある[38]

1561年(永禄4年)の川中島の戦いで、「越後方では大川忠秀、志駄義時らが討ち死にした。」とある[39]。府屋から春日山まで海岸線でも約200キロメートル。陸路ではそれ以上となる。春日山から川中島まで国道18号でも80キロメートルある。

早川圭は「大川城跡は北端から南端まで全長約1000mにわたる規模」「軍事的緊張が高まった国境に、縄張り・防御施設が発達した城」とし、出羽と越後の「境目の城」と位置付けている[40]

また、大川氏の経済基盤について田中圭一は「農業はもとより山熊田の砂金採取・大毎の金山活動」「製塩用の塩木生産」をあげている[41]

坂井英弥は「大川町は海岸部の山あいの地域のなかでは、比較的大きな川の河口にある。この地域にあっては比較的豊かな生産基盤があり、なおかつ経済的な要所である。必然的な有力者がうまれるところであるし、その拠点が新たに築かれるとき、既に存在した中心的な集落を意識して選地した可能性は十分にある。」と記し、注には「大川の集落は城館が廃絶したのち、現代に至るまで、地域の中心集落としての町場を維持してきている、これらの集落は戦国期に城下集落として大きく発展し、その機能が後世まで維持された面も考えられるが、そもそも城館の存在がなくともこれらの集落が、成立する基盤を有していることを示している。」と記している[42]

明治期の府屋村

府屋周辺の遺跡や地形・地質などを、地理院地図を加工し記入
府屋周辺の遺跡や地形・地質など

幕末1868年慶応4年/明治元年)から1869年明治2年)に起きた戊辰戦争時、村上藩家老鳥居三十郎は、同志らと庄内の鼠ヶ関に入りと庄内藩と共に明治新政府軍と戦った。このことについて横山貞裕は「偉かった鳥居三十郎」の項で「村上町を戦火の災難から救うために戦場を羽越の国境鼠ヶ関に求めて」と記している[43]。大滝勝人に従えば、「山北=ブドウヤマ=蒲萄山の國」が戦場となった[44]。その結果、火をかけられた地が、中浜・府屋や小俣などの地、即ち「サンポク」である[45]

渡辺勝男は「府屋は戊辰の役で焼失し、史料は皆無であり」と述べ「山手の味方末吉省造岩崎ヲ火シ大川(府屋)に入り民家ノ後に忍テ火ヲ掛レバ敵怺エス碁石のホウエ引退ク[46]」と『戊辰庄内戰爭録』の内容を記し、その惨状を伝えている[47]

府屋は2008年(平成16年)4月1日に新潟県村上市府屋になっているが、明治政府が1874年(明治7年)4月、各府県に村名等調査を5月30日まで提出するよう通達し、全国に村名をフリガナ付きで提出させた『全国村名小字調査書』には「越後國別調 中 二十五第區 越後國岩船郡 第十小區 總四十一ヶ村の中に「府屋村」の名がある[1]。以後、1889年(明治22年)に府屋村を含む12村と合併し、大川谷村となる。

府屋について『山北町の民俗4(社会)』には、「江戸時代から明治22年(1889年)の町村制の施行までの文書には、「府屋町」・「府屋町村」と表記(要約)」とある[48]

和名類聚抄』の越後国磐船郡の郷名について邨岡良弼は、「上海府、下海府二村、海府以音讀之、海部訓安萬倍、興餘戸(アマベ)聲相通」と記し、海府・海部・餘戸は安萬部(あまべ)と述べ、餘戸郷はアマベ郷としている。その上で『越後野志』を引用し「餘戸 亘 府屋、岩埼、中濱、岩石、碁石、勝木、大蔵、寝屋、蘆谷、寒川、桑川、今川、板貝、笹川、桑川 諸邑”稱 海府浦 盖其地也」とある[49]。また。「山家 越後野志、今山家郷、蒲萄、大澤、大毎、黒川、大代、小俣、大行、須戸、荒沢、大平、高橋、關口、松岡、早稲田邑」と記している[50]

横山貞裕は山家郷について「蒲萄山北郷」と、他者の説を紹介している[51]。小田島允武の1815年(文化12年)の著作『越後野志』には、蒲萄山北郷・山北郷の文字は見当たらない。前述の海府郷府屋駅があるのみ。小田島允武・邨岡良弼・横山貞裕を合わせると、「蒲萄山北郷」は「大澤、大毎、黒川、大代、小俣」出羽街道筋にあたる。海岸部の府屋~桑川は海府郷。蒲萄、大行、須戸、荒沢、大平、高橋、關口、松岡、早稲田は出羽街道筋の旧朝日村となる。

山北(サンポク)とは

「山北」について『山北町の民俗4(社会)』には、「山北町は古くから「山北郷」「蒲萄山北」と称され、一つのまとまりある地域(郷)と考えられてきた。山北の名は蒲萄山(蒲萄峠)の北にある郷と言われている。出羽街道の険阻蒲萄峠を越えたこの地方は、三方を海に囲まれ一方は日本海に塞がれ、閉ざされた空間を形成していた。閉鎖空間での人々の暮らし向きや暮らしぶりなどから、地理的・経済的に一つの同じ郷とみなされてきた。生活など文化様式は朝日村と類似し連続しているが、庄内地方の影響も強く、帰属意識は葡萄峠を境に朝日村とは異なる郷と認識されてきた」と記されている[52]

宮本常一は「昭和11年(1936年)11月8日、東北地方巡歴の爲、朝小山行にて上野駅をたつ。(中略)次の汽車にて越後村上に向かう。(中略)村上に着くともう寒かった。裁判所に渡辺行一氏をとふ。初対面。瀧波龍太郎氏を紹介さる[53]。」「瀧波氏から蒲萄山北郷の方へ這入なら中俣の村長が今日の會に來ておられるかもわからぬから(以下略)[54]」「山北に入って所々にカノを見かける。ナギバタとも言っている。燒畑である[55]。」「由来山北郷は漆の産地であった[55]。」と、「山北(サンポク)」の言葉が使われはじめ、「山北郷とは蒲萄峠以北の中俣・大川谷・黒川俣・八幡・下海府の五ヶ村を指すもので、一般には葡萄山北と言ってゐる。新潟縣の最も北に位して、その大半は古くは天領であり、米沢藩の領でもあった。農業を以て主として生計をたてたが、薪材木もをも伐出して新潟方面に送り、又漆をかいて收益をあげ、金銅亜鉛をも産した。一帶に山岳起伏して人口は少く,冬期は積雪多く生計は困難であると言ふべきであろう。その海岸地帶は海士の住む海府の地であるが、海岸地方には足を印する事がなかったので、滋にはその歩いた道筋附近の事についてのみ記す」と以後の号にも見える[56]

大滝勝人は「小林さんの言はる〻「旅行者の採集と土着人の採集」について學問上の參考になるものでしたら、宮本さんの後に續いて(五月號の)又私もトボ〻と歩むことにいたします。「山北郷」の名称は新しきもので、小國から徳川時代には、私の村(八幡)の川筋を立島谷、大川谷村の川筋を大川谷と称してゐました。「山北」とは村上の町中心で眺めた蒲萄山の北の郷といふ意味で「上方」の稱呼と同じもの。村上から見て蒲萄山の手前、村上迄の間を「下川郷」又は「下在」と稱してゐます。實は「山北」など〻は儀禮の稱呼で、「村上」からは、俗に「ブドウヤマ」と蔑稱し、小兒の泣くのを威嚇する時は「だまらないと葡萄山にくれてやるゾ」と明治時代初期まで言っていました。蒲萄峠を越して來る人間はほとんど葡萄山の國から出てくるものと思ってゐたのです。「猿」と呼ぶ蔑称は當前行はれていたのに皮肉にも其の地方から、郡會議員、縣會議員、代議士などが續々と出てきました。此處の猿はまたなんと優越感の強いサルでせう。其のバカにされたサルは中々政治の大才で著名な議員ばかりであります。政當時代、岩船郡から出た縣會議員を新潟でサルだとバカにしたさうだが、其の岩船郡内で又猿の國だという山北郷なのだから猿の本場なわけです。(中略)交通不便な昔の村上の人々は葡萄峠は山又山の國に辿り入るばかりのものであると思ひ決めてゐたものです。(中略)村上からみて海岸通地方を「海府」と読んでゐますが、それは現在の上海府村邊が限界で、その沿岸續き北の方には關心の視野が届かず、村上から眺めて、山の方からも、磯の方からも、忘れられた地方が即ち我が「山北地方」(以下略)」とする[44]

山北町の経済・文化について『山北町の民俗5(信仰)』には、「山北は古くから「大工のまち」として知られ、出稼ぎによって生計を維持する割合も過去、現在ともに高いものがあります。この出稼ぎの範囲は明治、大正期には専ら出羽街道を通じて、鶴岡を中心とした庄内地方が主なものでした。その結果、山北は文化的には現在の村上市や新潟市よりも、むしろ庄内地方の影響を強く受けていたのが、明治時代までの実状だったのです。」とある[57]

ちなみに1955年(昭和30年)、下海府村、八幡村、黒川俣村、中俣村、大川谷村の5ヶ村が合併して山北村となった。初代村長は黒川俣出身。1965年(昭和40年)に山北町となった。村上市に合併した2008年(平成20年)からは「山北地区」となった。学校名も「村上市立山北中学校」「村上市立さんぽく小学校」となった。蒲萄山南の山北郷に隣接する朝日村は「蒲萄山南郷」「山南(サンナン)郷」とは言わない。

府屋の名称

大漢和辞典』に「府」は16通りの意味が示されている。その一つに「つかさ。官省。役所」がある。これらの意味を含む熟語として、府舎・府地・府庭などがあり、「府」は「役所」の意味として使われている。特に「【府館】フクワン。役所のやかた」がある[58]

新編大言海』には「ふ」の項に「府」があり、6通りの意味を記しているなかで「官人ノ事務ヲ執ル所。ツカサ。役所。」があり、「倭名類聚抄、五四官名「府、近衛府、衛門府、太宰府、鎭守府、國府」と、その出典を示している[59]

『大漢和辞典』の「屋」は10通りの意味の中で、「や、いへ・すみか」がある。関連する熟語に「【屋形】貴族の居宅をいふ。殿舎。」がある[60]

『新編大言海』の「屋」は10通りの意味を示し、「や、いへ、すみか」がある。「屋」の熟語として「やかた(屋形)」があり、その意を「家處ノ義」と説明している[61]。「家處」について『大漢和辞典』では、「家處」を「家居を見よ」とあり[62]、「家居」には「住居をいふ」とある[63]。これらのことを照らし合わせると、「府屋」は「府の屋形」が浮かび上がる。

地形・地質

府屋の地形分類図とハンドオーガーによる掘削結果

地形分類図

国土交通省の『5万分の1 都道府県土地分類基本調査地形分類図』(新潟県 温海・勝木)によれば、府屋は南北約1000メートル、東西最大幅約600メートル、北の大川左岸から東・南山裾までの広さ約0.3平方キロメートルの三角状の海岸段丘上にある。海岸段丘上には南北約800メートル、東西最大幅約300メートル、最大標高約18.7メートル(地理院地図計測)の被覆砂丘がある。砂丘はクリオネが北に向いているような形で、北端から約300メートル南付近に頂上があり、頂上から南約700メートルまでなだらかに続く。

伊倉久美子・太田陽子は、府屋の完新世海成段丘の研究で赤丸ポイント地をハンドオーガーで掘削した計測結果、「地表面(高度7.0メートル)腐植土の下は標高 4.3メートルまで小礫混じりの砂層で、以下砂層を挟むシルト層となる。海成層は確認できなかった。」と記している[64]。掘削場所の50メートル先にΣ型の旧河道がある。「小礫混じりの砂」は大川の流れによるものなのかどうかは記されていない。

府屋の表層地質図
府屋の表層地質図

表層地質図

府屋南の山の左右中心線のようなところは断層で、その位置にヒヤゾウと呼ぶ府屋沢がある。府屋沢西の塊は、シルト岩泥岩凝灰岩。東の塊は、泥岩・砂岩褐炭。大川河口近くの右岸には玄武岩が、左岸には砂丘が川縁まで伸びている。

大川の流れ

米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真

地形分類図には、大川右岸の山裾に河岸段丘Ⅲと旧河道、その下に河岸段丘Ⅳと旧河道が示されている。大川左岸には東側段丘状の山裾に沿ったΣ 中島通りについて『山北町の民俗4(社会)』にも、「府屋は、明治中頃まで「府屋百軒」といわれ、本町や中嶋通り(現在の学校町)を中心に人家が立ち並んでいました。」と記されている[48][注釈 3]

府屋沢と県道52号線が交差する地点は標高値が約5メートル。西が砂丘と東は河岸段丘下でつながっても、地名だけが語り継がれていた。

『慶長瀬波郡絵図』に、「大川之町」・「大河河」名が記されている[注釈 4]。「大川之町」は府屋、「大河河」旧中継川、現在の大川にあたる。絵図には町の家並東に欄干付きの橋が描かれている。この橋が府屋沢に架けられている橋。大川之町は中島としては描かれていない[注釈 5][注釈 6]

社家の増子久雄は「而して当時の人は神明宮付近に居住したといはれている[70]。」「今より五六百年以前は荒川山熊田小俣三筋の川合流して済々たる大川の流れ社前を流れしも其後村の北部に移れり[71]。」と記している。「神明宮付近に居住していた」その場所は、神明宮の北側か西側か、その両側なのかは分からない。大川の流れが変わったあと、社家は村人とともに中島通りに移り住み、2024年(令和6年)現在に至っている。

大川の流れが変わったのは1970年から500年〜600年前となれば、時代は1370年〜1470年頃で大川城築城の頃となる。なぜ川筋が変わったは分からない。工事は築城だけではなく家臣団の住まいも必要。地割図は田中圭一の図に従えば、府屋沢を境に舌状台地を囲むよう配置されている[33]

古くから残る広い土地

次にあげる土地は、列車で標高12メートルを走る大川橋梁右岸から、南を望むと視野に入る。

藤懸り館跡

標高約16メートル、面積は概測6000平方メートル=1,800坪。『慶長瀬波郡絵図』には「藤懸り館」として館が描かれ、その名は記されている[注釈 7]。絵図には館に上る道が「欄干付きの橋」から「ぬくいで」に向かう道の途中に描かれている。温出に向かう道の三叉路の右にも、館に上る道が描かれている。

横山勝栄は「池の東付近の山地の袖部は湿地帯。現在でもぬかるみ状態が激しい。北東辺は大川の川岸に沿うように崖状で自然地勢のままにちかい。北東面した辺は三角状に開ける。西にとんがる平坦地。微妙な高低差がある。」とする[72]

『山北町の民俗5(信仰)』には「府屋の神明宮に合祀されている河内神社は、古くは一宮川内神社(または一の宮大館山神社)と称し、嘉応二年(1170年)に宮の下の本社から勧請されました。一説には、雲上佐一郎は高天原より大川谷に漂着して、府王舘(今の古舘)に城を築き、地元の人々に漁業を教えたと言われています。戦国時代、府屋に居城した大川三郎二郎は天文三年(1534年)神社を再建して社領七十二石を寄進し、領内五ヶ組の総社として崇敬しました。」と、藤懸り館の前は「府王館」と言われていたことを記している[73]

地理院地図Vectorの3D画像(高さ1.5倍)

神明宮

『山北町の民俗5(信仰)』には、「創建年代が伝承されている神社のうち最も古いのは府屋の神明宮で、天長元年(八ニ四)因幡守の祖先である藤原大夫(増子民部輔)が伊勢から勧請したと伝えられています。」と記している[74]

境内は3か所に分れている。標高と面積は、下境内が標高約16メートル、面積概測550平方メートル≒約166坪。中境内が標高約22メートル、面積概測600平方メートル≒181坪。上境内が標高約23メートル。面積概測200平方メートル≒60坪。

『大川郷誌』では「天養二年(1145年)、寛政十一年(1796年)七月、及び文政六年(1823年)七月二十日三回改築す。社殿は境内の広場にありしを文久二年(1862年)七月十五日現地に引き上げたり。〈中略)大正十二年(1923年)八月十五日 本殿を建築す。」 とある[75]

『山北町史』は神明宮の建物について「天養二年(1145年)に改築。寛政十年(1798年)十二月破壊。翌年7月に再建。文政六年(1823年)七月二十日に改築した。」とある。1862年(文久2年)の移転は記されていない。その理由を『山北町史』は述べていない。 

佐藤伊勢男は「現在の神明宮は文久年間に移転されたものである。」と記している[76]

神明宮の調べでは、前の建物は間口12.6m≒7間、奥行5.4m≒3間。中は間口10.8m≒1.5間。奥行3.6m≒2間。奥は間口2.7m≒1.5間。前・中・奥の建物は、つながっているが、7間×3間の建物が最も古いという。1862年(文久2年)に現地に引き上げたのは、下の境内からか、中の境内からかの記録はみつかっていない。そもそもなぜ境内が3か所あるのかの記録も見られず、天長元年(824年)の創建時、自力で土地を造成したのか、何の跡地を利用したという記録は『山北町史』には記載がない。

常楽寺

標高約11メートル、面積概測2,000平方メートル≒605坪。本堂の背後には小さな沢がある。南には5200平方メートル≒1570坪の平地が広がる。『山北町史 通史編』には「往時、山熊田寺屋敷(寛永18年:1641年)にあったがその後、堀ノ内の寺沢に移り、さらに府屋に映ったと伝えられる。正保元年(1644年)4月に創建。」とある[77]。正保元年(1644年)以前は何に使われていたのか記録は、『山北町史』には見られない。

オオクラタテ

標高約11メートル、面積概測4,000平方メートル≒1,210坪。『山北町史』には「府屋館。 空堀と土塁の一部が残っていて(中略)。空堀の周辺から中世期の陶器片が採取されている。」とある。横山勝栄は、「オオクラダテに本拠地をおく大川氏」と、山城・居館を築くまでの本拠地としたのではと想定している[78]。オオクラタテの北端には、西の高岩寺から流れる水路がある。水路との比高は4メートル。水路から北は標高約6〜7メートルで、南北約190メートル、東西約100メートルの砂丘の裾野が続く。

高岩寺

標高約8メートル、面積概測4,000平方メートル≒1,210坪。西は標高約14メートル上に民家、南は約14メートルに旧山北町役場・現村上市支所、東は約13メートルに郵便局と、砂丘の崖に囲まれた窪地。北の境内出入り口は、標高約7メートルの道路に接している。『山北町史 通史編』には「天文21年(1552年)大川三郎二郎の招きにより耕雲寺の三心宗伊禅師によって創建。明治18年(1885年)4月の岩船郡長あての文書によれば「天文11年(1542年)5月」とある」と記されている[79]。高岩寺の土地が1512年以前からあったのか、創建に合わせて掘削したのかの記録は『山北町史』には見られない。

上山

標高約18メートル、頂上付近面積概測740平方メートル≒224坪。山全体は共同墓地となっている。頂上からは、北に山形県の鼠ケ関、新潟県の鼠喰岩(ねずみかじりいわ)、東にエミシと朝廷の境の山との伝承がある555メートルの山「日本国」、藤懸り館跡、西には船が行き交う日本海、南・北・東の山間・海岸部と、360度見渡せる。

羽越本線府屋駅から日本国を望む
府屋駅から日本国を望む

ちなみに、日本国(555メートル)について渡辺勝男は「この山の名前については、この山で獲れた鷹を領主に献上したところ、日本無双の山であると賞賛され、日本国の名称が与えられたという口碑が中俣地区を中心に伝えられています。」「進藤重記翁の出羽風土記の中の「田川郡産物」の項に(中略)日本国狐(今はこの村なし)とあり、古代に日本国という村があったと考えられます。」「現在山形県鶴岡市に日本国という字名があり、日本国十二番地から出土した平安時代の小つぼが鶴岡市致道博物館に保存されています。日本国村は、平安時代中期以後、庄内蝦夷征服とともに鶴岡に転進したのではないでしょうか。慶雲二年(七〇五年)十二月十六日、威奈大村が初代の越後城司に任命されました。しかし威奈大村は慶雲四年(七〇七年)四月二十四日、越後城で亡くなり、後任には阿倍朝臣真君が急拠任命されました。越後に赴任した真君は和同元年(七〇八年)久我地二十八日、岩船郡の北方に新しい郡を設置したいと太政官に申し出ました。また、阿倍真君は立派な鷹の羽を献上しました。そして和銅五年(七一二年)に越後の北に出羽郡が分置されました。阿倍真君が鷹の羽を献上したことと、日本国山がちょうど越後と出羽国の境にあることが結びついて、上記のような口碑になったのではないでしょうか」と記している[80]

進藤重紀の『出羽国風土略記』には、「小鍋村の番人ハ百姓の内より置之、大小御免、御給穀あり、小寺氏小国の南日本国といふ所、越後出羽の境也といへ共、今日本国といふ所なしとそ、越後境御茶屋峠といふ所より半道斗手前に古村居の跡ありといふ」と記している[81]。「小國」は出羽国庄内藩領小国村。越後国境「御茶屋峠」は堀切峠のこと。半道は2キロメートル。古村居跡は古い時代の住居跡。その場所は越後国村上藩領小俣村にある旧小俣小学校跡地。この場所が日本国と名がつく古村居かどうかは不明。

『出羽国風土略記』活字本の序に松岡俊三は、「進藤重記翁冤罪を蒙り、轗軻不遇、窘窮落魄[注釈 8]し、孤影悄然[注釈 9]として祖先以来奉仕せる大物忌月山兩宮を去りに遂に縲絏[注釈 10]の辱めを受く(以下略)」と記している[82]

『米澤善本の研究と解題』には、『出羽国風土略記』十巻の項に「進藤重記は飽海郡吹浦の神職で寶歴三年故あって職を剥がれ田川郡に追放された人である。」と記されている[83]

交通

脚注

注釈

  1. 現在の山形県鶴岡市内。
  2. 現在の北海道博物館
  3. 米軍写真の拡大は大川城の発掘調査報告書『大川城跡』の図版17を参照[65]
  4. 文字解読は東京大学史料編纂所編集の『越後国郡絵図』による[66][67]
  5. 絵図『慶長瀬波郡絵図』は大川城の発掘調査報告書『大川城跡』の図版16を参照[68]
  6. ちなみに『慶長瀬波郡絵図』の大川之町の下の村名を、諸研究者は遠辺村、大川遠辺村と読んでいる。しかし、東京大学史料編纂所は「近辺村」と解読している[69]
  7. 文字解読は『越後国郡絵図』による[66]
  8. 窘窮(キンキュウ):非常に苦しみ困ること。落魄(ラクハク):衰えて惨めになること。
  9. 孤影悄然(コエイショウゼン):一人きりで寂しそうな姿。
  10. 縲絏(ルイセツ):縄で縛られ牢に入れられること。

出典

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参考文献

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