我執
我執(がしゅう、आत्मग्राह、ātma-grāha、アートマ・グラーハ)は自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。すべての存在に実体(法我)があると考える「法執」(dharma-grāha ダルマ・グラーハ)と合わせて二執を構成する。
意識ある生きものを有情(うじょう)といい衆生(しゅじょう)というが、その主体として、恒常・不変の自我(人我 ātman)が実在すると考えて執着することを言う[1]。それぞれ二執を「人我見(我見)」・「法我見」ともいう。後述の「人無我」「法無我」に対している。
我執には、人に生れつきそなわっている「倶生」(くしょう)と、後天的に教えこまれたり、考え出したりする「分別」によるものとの2種がある。唯識では、8種の認識作用(8識)を想定しており、倶生は第7の末那識(まなしき、manas)に、分別は第6の意識(mano-vijñāna)に属するとしている。
人我見・法我見
個人の主体としての自我(我 pudgala、ātman)が存在する、という誤った見解を「人我見」「我見」というのに対して、個人の構成要素および外界のあらゆるものに実体(自性 svabhaava、自相 svalakṣaṇa)を認める誤った見解を「法我見」という。
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