松平斉典
松平 斉典(まつだいら なりつね)は、江戸時代後期の大名。武蔵国川越藩4代藩主。官位は従四位上・左近衛少将。結城松平家8代。
凡例 松平斉典 | |
|---|---|
![]() 松平斉典像(孝顕寺蔵) | |
| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 寛政9年11月2日(1797年12月19日) |
| 死没 | 嘉永3年1月20日(1850年3月3日) |
| 改名 | 乙之助、徳之助(幼名)、矩典(初名)、斉典 |
| 戒名 | 興国院殿懿徳協和大居士 |
| 墓所 | 埼玉県川越市小仙波町の喜多院 |
| 官位 | 従四位下大和守、侍従、従四位上左近衛少将 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉→家慶 |
| 藩 | 武蔵川越藩主 |
| 氏族 | 結城松平家 |
| 父母 |
松平直恒、菊池氏 松平直温 |
| 兄弟 | 知豊、兼子、直温、斉典、朝蟻、磯子、絹、岸、季遠姫、可寛 |
| 妻 |
宗義功娘・徳 お登勢 |
| 子 |
典常、典則ら 斉省、鉚 |
生涯
2代藩主・松平直恒の四男として誕生。兄で先代藩主の直温が22歳で死去したため家督を継ぎ、11代将軍・徳川家斉から偏諱を受けて矩典(とものり)から斉典と改名した。結城松平家は度重なる転封により借財が23万6千余両(1両=8万円換算とすると約189億円)も累積しており、その利息と返済のための新規借入が年々4万両(同・約32億円)に上るという状況になっていた。現在でも名君として称えられる斉典の藩政は、この借財との闘いの連続であった。
藩財政改革
斉典は川越藩を継ぐと、農村復興を中核とする財政再建にただちに取りかかった。
庄内転封画策
斉典は川越から経済の内容が良い領地に転封することで、この債務を強引に整理することを画策し、大御所徳川家斉周辺に多額の工作資金を費やして国替えを働きかけた。家斉の二十五男の紀五郎(後の松平斉省)を養子として迎えたのも、その布石と言われている。はじめ斉典は老中首座の水野忠成に播磨姫路への転封を願ったが、工作の途中で忠成が急逝したため、その願いが果たせずにいた。次いで、家斉の御側御用取次の水野忠篤や紀五郎の生母お以登の方を通じて大奥にも画策し、商業が栄え肥沃な庄内平野を持つ庄内14万8000石への転封の幕命を出させることに成功した。庄内藩主酒井忠器は越後長岡藩へ、越後長岡藩主牧野忠雅は川越藩へ転封されることになった(三方領知替え)。
しかし、酒井家を慕う庄内農民が猛反発し、反対強訴で転封が滞るうちに家斉、斉省が相次いで死去したため、幕命撤回という前代未聞の結末となり、転封は中止された。
年表
- 寛政9年(1797年):松平大和守直恒の四男として生まれる。
- 文化13年(1816年):兄の直温が死去したため、川越藩松平家を相続。従四位下・大和守に叙任される。
- 文政3年(1820年):武蔵国内の領地のうち1万5千石を相模国内と替地され、相州警固役を命ぜられる。500人を超える藩兵を派遣。
- 文政8年(1825年):11代将軍・徳川家斉の二十四男・紀五郎(後の松平斉省)を養子にする。
- 文政10年(1827年):侍従に叙任される。
- 天保6年(1835年):従四位上少将に昇格。
- 天保8年(1837年):モリソン号事件。異国船打払令により浦賀に派遣された藩兵が同船を砲撃する。
- 天保11年(1840年):出羽庄内藩に転封を命ぜられる。
- 天保12年(1841年):庄内農民の反対により国替中止。かわりに武蔵国内で2万石加増の台命が下る。
- 弘化3年(1846年):アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが黒船2隻を率いて来航。藩士が接触する。
- 嘉永3年(1850年):死去。享年54。
系譜
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