松平輝綱
松平 輝綱(まつだいら てるつな)は、江戸時代前期の大名。武蔵川越藩の第2代藩主。松平伊豆守系大河内松平家2代。
凡例 松平 輝綱 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代前期 |
| 生誕 | 元和6年8月5日(1620年9月1日)[1] |
| 死没 | 寛文11年12月12日(1672年1月11日) |
| 改名 | 主殿(幼名)→輝綱 |
| 戒名 | 智光院殿仁艘玄勇大居士 |
| 墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
| 官位 | 従五位下、甲斐守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家綱 |
| 藩 | 武蔵川越藩主 |
| 氏族 | 大河内松平家 |
| 父母 | 父:松平信綱、母:井上正就の長女 |
| 兄弟 | 輝綱、吉綱、伊織、信定、信興、堅綱 |
| 妻 |
正室:板倉重宗の八女 継室:板倉重宗の十一女 |
| 子 | 主殿、惣左衛門、勘解由、信輝、鶴千代、輝貞、主税、布宇、寸和(酒井忠義正室)、宴、大、陽 |
生涯
世嗣時代
元和6年(1620年)に松平信綱の長男として武蔵で生まれる。幼少期に徳川家光に拝謁し、信綱の願いで板倉重宗の八女との縁組が許され、寛永16年(1639年)9月5日に結婚した。それより前の寛永11年(1634年)6月20日に父と共に家光の上洛に従った。寛永12年(1635年)12月28日に従五位下・甲斐守に叙任される。寛永14年(1637年)に家光が信綱邸お成りの際には国重の刀を与えられた。
寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけて、島原の乱鎮圧の上使となった父に従い、九州に赴いた。輝綱の手になる『島原天草日記』は、当事者の記録として貴重である。このとき輝綱は、従弟の天野長重らと城攻めに臨み、止めようとした家臣を怒って斬ろうとしたが、家臣が信綱の主命を守って死す覚悟を示し、井上政重の諫めもあってやむなく陣中に引き揚げたという。
慶安元年(1648年)4月には父と共に家光の日光参詣に従った。その後は父の名代として台徳院法会の奉行や造営奉行などを務めた。
登場作品
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