熊谷喜一郎 (内務官僚)
経歴
熊谷禎蔵の長男として江戸で生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省試補となり社寺局に配属された。
1893年11月、北海道庁参事官に就任。以後、内務書記官、拓殖務省書記官、農商務省・陸軍省・内務省の各参事官、兼台湾総督府事務官などを歴任。1905年8月、樺太民政署が設置されると民政長官に就任。1907年4月、樺太民政署が樺太庁に改編され、引き続き民政長官を務めた。
樺太庁では長官の楠瀬幸彦と不仲になり、第1次西園寺内閣の内務大臣である原敬は1908年4月24日に両名を更迭し、熊谷は同年6月12日付けで山梨県知事に就任した[1]。県民から「蛸入道」の異名をもらった[2]。山梨県政においては明治40年の大水害からの復興に尽力した。1912年(明治45年)3月27日から4月4日には皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山梨県行啓が行われている[3]。熊谷は3月9日に上京して皇太子行啓の内示を受けている[3]。同年12月14日には江戸時代の甲府藩主で大老格柳沢吉保に対して贈従三位の策命にあたり、策命使をつとめる[4]。
著書
- 述『要塞地帯法講義』憲兵練習所、1900年。
脚注
- 伊藤(2014)、p.52
- 甲州見聞記 5.面白い山国言葉東京朝日新聞 1912.3.23-1912.5.2 (明治45)
- 小畑(2014)、p.22(39)
- 『三富開拓誌』47頁。
- 『官報』第7159号・付録「叙任及辞令」1907年5月14日。
- 『官報』第8243号「叙任及辞令」1910年12月12日。
参考文献
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