福島藩
前史(江戸幕府以前)
室町時代
福島は伊達氏が長らく統治してきた。1413年(応永20年)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝と共に鎌倉公方へ反乱を起こした際に立て籠もった大仏城が後の福島城といわれる。大仏城は後に杉妻城(または杉目城)と改められ、天文の乱後、福島は伊達氏家臣の牧野相模守の所領になっている。
その後、伊達晴宗が嫡子・輝宗に家督を譲って隠居した際に米沢城から杉目城へ移った。このころの信夫郡(現在の福島市一帯)の中心的城郭は晴宗の弟・伊達実元の居城・大森城であり、杉目城は単に晴宗の隠居城としての性格しか持ち合わせていなかった。1577年(天正5年)に隠居である晴宗が死去すると、晴宗夫人・裁松院(久保姫)と晴宗末子・直宗が居住した(直宗は天正12年に死去)。
沿革
米沢藩重臣の統治時代
上杉家は、信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き[注釈 1]、信夫郡の福島城には本庄繁長や春日(高坂)氏、伊達郡の梁川城には芋川正親や須田氏らを城主(城代)として統治させた。
上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した[注釈 2]。
寛文4年(1664年)、定勝の子(景勝の孫)綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(3代将軍徳川家光の実弟)の尽力により、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、福島城を含む信夫郡・梁川城の伊達郡・高畠城のある置賜郡屋代が公収された。
江戸屋敷
※屋敷所在地は時期により移転や複数存在する場合あり
- 上屋敷
- 下屋敷
領地
歴代藩主
支藩
各家とも福島藩主時代には支藩の創設はなし。本多家には、大和郡山藩主時代に分封した播磨山崎藩、陸奥岩瀬藩が存在した。このうち、福島県須賀川市に陣屋を置いた岩瀬藩主の本多出雲守政利は、天和2年(1682年)まで播磨明石藩主であったが不行跡により岩瀬に減転封された。その後、行跡を改めず乱行を続けたとして、元禄6年(1693年)に改易となった。
幕末の領地
廃藩後の旧藩主板倉家との関わり
1884年(明治17年)、福島県庁を福島町から中通り中部へ移転させるという動きが起きた際に、その反対運動の先頭役である初代福島町長の鐸木三郎兵衛を熱心に支援したのが、最後の福島藩主板倉勝達子爵であった。勝達を含めた有力者の支援もあり、県庁移転運動は封じられ、福島県庁移転を阻止に尽力した。
現在、重昌系板倉家の祖である板倉重昌を崇神している板倉神社が福島城跡敷地内に所在する。9月上旬に執り行われる板倉神社例大祭において、福島藩主の子孫にあたる板倉家当主など関係者が出席している。また、板倉神社の修営にも携わっているなど、継続して福島市との関わりを持ち続けている。
歴代藩主奉納の絵馬
後の世に歴代福島藩主は絵馬のお殿様としても知られるようになる。福島城下周辺の社寺には福島藩主による絵馬を奉納する伝統があり、堀田氏により1枚、板倉氏により27枚が奉納されている。福島稲荷神社、黒沼神社、板倉神社、大蔵寺、満願寺、文知摺観音といった格式の高い社寺や民衆の信仰を集めた社寺に奉納された。[1]
脚注
注釈
- 佐藤家忠は福島を本貫とする地侍(信夫佐藤氏18代目)。古川重吉は信濃衆(更級郡塩崎城主・小笠原氏の出身)で不仲だったという説もあるが、現在は西根神社に、信達総鎮守として共に祀られている。
- 21世紀の現在も維持管理されている。下堰(したぜき)と上堰(うわぜき)の2つの水路があり、灌漑面積は約1,400ha。
出典
- 絵馬展~黒沼神社 福島藩主歴代奉納絵馬~(福島市公式ページ)
関連項目
外部リンク
- 『福島藩』 - コトバンク
- 福島(板倉内膳正勝長) | 大名家情報 - 武鑑全集
- 板倉神社 | 福島市 板倉神社
- 天保国絵図陸奥国福島 国立公文書館デジタルアーカイブ
| 先代 (陸奥国) |
行政区の変遷 1679年 - 1868年 |
次代 福島県(第1次) |
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