丹後田辺藩
藩史
前史
丹後国は元々一色氏が守護を務める国であったが、天正7年(1579年)、細川藤孝は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧する功績を挙げた。藤孝は恩賞として丹後一国を与えられ田辺城を築き、舞鶴を拠点に丹後一国を治めた。その後、天正10年(1582年)6月2日に親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝自身も加担するよう誘われるが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されている。しかし藤孝は、親戚であった光秀の裏切りの責任を取る形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居した。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移った。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には再び舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めた。戦後、細川氏は豊前国中津藩へ転封された。代わって信濃国飯田より、京極高知が田辺城に入城した。
歴代藩主
牧野家
譜代 3万5千石 (1668年 - 1871年)
舞鶴県
舞鶴県(まいづるけん)は、廃藩置県により1871年(明治4年)に設置された県。同年10月に豊岡県に統合され消滅した。県域は現在の京都府舞鶴市と旧大江町、宮津市由良のほぼ全域。
舞鶴県は廃藩置県により各藩が県と改編されたもので、約3か月だけ存在した。そもそも舞鶴は丹後田辺藩であったが、和歌山県の紀伊田辺藩と重複することから太政官の命により、丹後田辺城の雅名であった舞鶴城から藩名をとって舞鶴藩にしたものである。県庁は舞鶴城におかれ、後に同じ丹後国の宮津県や峰山県とともに豊岡県に統合された。
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