アト゜イ
アト゚イ(Atuy、本名:豊岡征則(とよおか まさのり)、1945年11月18日[1] – )は、アイヌ人実業家・作曲家・作詞家。別名はサンニョアイノ(考える人)、愛称はポンニー(小さな木の人)という[2]。
あとぅい、Atuy アト゚イ | |
|---|---|
| 生誕 |
豊岡 征則(とよおか まさのり) 1945年11月18日 北海道釧路支庁白糠町 |
| 国籍 |
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| 別名 | サンニョアイノ、ポンニー |
| 民族 | アイヌ民族 |
| 職業 | 実業家・作曲家・作詞家 |
| 団体 | アイヌ詞曲舞踊団モシリ |
「アト゚イ」は、「アトゥイ」と書くこともできるが、本人は「ト゚」を使った表記を一貫して使っている[注釈 1]。
人物・略歴
おいたち
1945年(昭和20年)、北海道釧路支庁白糠町生まれ。アイヌ人が多く住む集落で育ち、アイヌ人のアイデンティティを持つ。母はアイヌ人、父は非アイヌ人だがアト゚イ出生前に姿を消した。小学生の頃には漁船に下働きとして乗り組み、櫓のこぎ方もそこで覚えた。アイヌの出自のために和人の子供から差別を受けることに我慢できず、小学校に通うのをやめた[3]。
10代後半から、納豆売りや廃品回収を行う。ギターの腕前を上げ、17歳頃からは海外旅行を繰り返し、世界のいろいろな民族と出会うようになる[4]。1974年(昭和49年)、ペルーを旅行中、当時、赤塚不二夫のマネージャーだった横山孝雄と知り合い、その後、横山を仲介として赤塚とも親交をむすんだ[5]。
出演番組
アイヌ詞曲舞踊団モシリ公式サイト「モシリのおもな活動と報道」によれば、以下のような番組に出演している[8]。
歴史・教育活動への貢献
1982年(昭和57年)、アイヌ語研究家・片山龍峯とともに、当時、北海道アイヌ協会の有力者だった椎久堅市、小川佐助、森久吉、文字常太郎にインタビューを申し込み、その会談記録を北海道ウタリ協会が出版した『アイヌ史 資料編3』に収録した。
それによれば、1947年(昭和22年)の春に椎久ら4名はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)第九軍団司令部に呼び出され、ジョセフ・スウィング少将と会見し、アイヌ民族に日本から独立する意志があるかを打診されたという。椎久たちは独立する意志はなく「日本国民として祖国の再建に尽くす」旨を答えると、少将はこれに対し、独立運動など起こさず日本人と対立しないよう釘をさした。
この「終戦秘話」といってもよい事実は、戦後40年以上たった1989年(平成元年)1月13日付『朝日新聞』に掲載されている[10]。
2012年(平成24年)には、北海道釧路明輝高等学校で行われているアイヌ学の授業に講師として招かれ、アイヌの歴史と文化について講義している。