伊勢平野
地形
地質
古・中生代の地層は直接確認されていないが、伊勢湾対岸の愛知県内陸部で発見されていることから、伊勢平野の地下深部の基盤岩を成していると考えられている[4]。北部は美濃帯(丹波-美濃帯)、中南部は領家帯に属する。中央構造線以南は三波川帯である。
伊勢平野の大半部は新生代のものである。台地は主に第三紀鮮新世の奄芸層群(あげそうぐん)からなり、段丘や扇状地は第四紀完新世、海岸線や南部は第四紀更新世と、標高が低くなるにつれて新しい地層となっている[4]。また中新世の地層も泥岩・砂岩を主体とした千種層(菰野町)・一志層群(津市久居西部-松阪市)などが不整合で基盤岩と接する[4]。
市町
歴史
江戸時代までは、畿内と東国を結ぶ東海道や伊勢参宮街道などの幹線道路が通っており、沿道には桑名宿などの宿場や城下町が成立して発達した。三井家のように、後に日本経済を代表する名門もこの地から輩出された。
明治時代以降は、東海道本線や名神高速道路などの交通の大動脈は岐阜県-滋賀県へ移ったが、一方で第二次世界大戦以前から東洋紡績の前身の三重紡績が1888年(明治21年)に創設されたことを契機に、津市以北を中心に紡績や重化学工業が発達した。これは、戦後の四日市石油化学コンビナートの礎となった。
津市は、伊勢平野の中央に位置する藤堂高虎が初代藩主を務めた津藩の城下町で、明治時代には三重県最大の都市であり、県庁が置かれた。伊勢平野南端の伊勢市(旧称・宇治山田市)は、国家神道の下で伊勢神宮が頂点とされ、国から重視された。
交通
明治時代中期の1895年(明治28年)に、関西鉄道により木曽三川に橋が架かり鉄道が開通するまで、伊勢と尾張間の交通手段は舟で海上を移動すること(七里の渡しや十里の渡し)のみであり、東海道や伊勢参りの旅人や商人が利用していたものの伊勢平野に住む庶民が名古屋方面へ出掛けることは稀で、もっぱら鈴鹿山脈を徒歩で越えて滋賀・京都方面へ向かうことが主流であった。松阪は紀州藩領であったため、奈良県を経て和歌山や大阪方面との交流が盛んであった。
明治中期になると四日市に関西鉄道株式会社(現在のJR関西本線)が設立され、京都 - 草津 - 柘植 - 亀山 - 四日市 - 桑名 - 名古屋間の鉄道が開通。また大阪の湊町 - 奈良 - 伊賀上野 - 柘植 - 亀山 - 津 - 松阪 - 多気 - 山田も開通して、伊勢神宮へ参拝客を運搬した。
昭和になると、大阪電気軌道傘下の参宮急行電鉄が上本町 - 名張 - 伊勢中川 - 松阪 - 宇治山田、伊勢中川 - 津を建設し、大阪方面から伊勢神宮への移動時間を短縮した。その後大軌グループは、関西急行電鉄を設立して津-名古屋を建設し名古屋駅に乗り入れした。(現在の近鉄名古屋線)
鉄道
地域の結び付き
桑名市は木曽三川をはさんで隣り合う愛知県、特に名古屋市とのつながりが強く、ベッドタウンの性格も有している。また、京阪神や名古屋に近いという利点を生かし、ナガシマスパーランドやなばなの里がある。鈴鹿市には鈴鹿サーキットモートピアといった観光施設や遊園地が立地する。
桑名市の他四日市市も名古屋市のベッドタウンとしての性格が強く、いなべ市は岐阜県の西濃地方とのつながりも強い。
中南部は、名古屋方面の他、京阪神や奈良県との結びつきも強い。これには近鉄大阪線や名阪国道などの交通網が発達したことによる[5]。
脚注
- 菊地、1970、238頁
- 伊勢平野の地下のようす 三重県石油商業組合、2020年11月9日閲覧
- 3-1-1 伊勢平野の地形・地質概要
- (2)地質
- 菊地、1970、240頁