喜多見重政
喜多見 重政(きたみ しげまさ)は、江戸時代の旗本。徳川綱吉の側用人。武蔵国喜多見藩主。綱吉の寵愛を受けて大名に取り立てられたが、すぐに改易された。
凡例 喜多見重政 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代前期 |
| 生誕 | 慶安4年(1651年) |
| 死没 | 元禄6年7月28日(1693年8月29日)? |
| 別名 | 彦五郎、通称:五郎左衛門 |
| 墓所 | 東京都世田谷区喜多見の慶元寺 |
| 官位 | 従五位下、若狭守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川綱吉 |
| 藩 | 武蔵喜多見藩主 |
| 氏族 | 石谷氏→喜多見氏 |
| 父母 |
父:石谷武清、母:喜多見重恒娘 養父:喜多見重恒 |
| 兄弟 | 石谷清成、佐野政信室、重政、内藤忠廣室 |
| 妻 | 正室:内藤正俊娘 |
| 子 | 北見忠政 |
生涯
生い立ち
2500石取りの旗本・石谷武清の次男として生まれる。慶安4年(1651年)江戸で生まれる[1]。外祖父・喜多見重恒の養子に入り、万治3年(1660年)12月25日将軍・徳川家綱にはじめて謁見。寛文12年(1672年)5月14日養父・重恒の隠居により旗本喜多見家の家督1020石を相続した。5月26日御書院番に列し、延宝5年(1677年)10月29日には進物役となった。
改易について
改易直前の元禄2年(1689年)1月3日、重政の従兄弟である旗本・喜多見重治(養父・重恒の弟・重勝の養子)の屋敷にて重治と重治の妹婿・朝岡直国が喧嘩になり、重治が直国を殺害し、重治もその罪で斬首に処されるという事件が起こっている。重政の改易もこの事件が綱吉の心証を害したのが原因とも言われているが、当時、寵臣であった重政の改易が不可解かつ劇的であったため、様々な臆測によって講談的に多くの創作が行われ、松本清張も小説『栄落不測』の題材にしている。朝岡直国の件に連座した説は、そうした臆測のひとつである。
重政改易と前後して多数の将軍側近が失脚している事実から、柳沢吉保による陰謀説を唱える向きもある[4]。また、同時代の山本常朝が重政を忠実至誠の武士として称賛していることから、改易の真因は、当初は理想主義的な施政として導入された生類憐れみの令が悪法化する兆しが見えてきたことに対して、重政が忠心から将軍綱吉に何らかの諫言を行ったことが、失脚に繋がったのではないかとも考えられる。いずれにせよ真相は不明である。重政の改易後、生類憐れみの令は急速に厳罰化、悪法化していく。
脚注
- 『断家譜』
- 喜多見の犬小屋建設の時期が改易後であり、場所も改易後の喜多見陣屋跡であることから疑問もある。
- 『続武家盛衰記』
- 『喜多見氏と喜多見流茶道』
出典
- 『万天日録』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『元禄録』
- 『甘露叢』
- 『続武家盛衰記』
- 『喜多見氏と喜多見流茶道』(世田谷区立郷土資料館)
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.