エディ・トムソン

エドワード・ジェームス・トムソン(Edward James Thomson[6]、1947年2月25日 - 2003年2月20日[注 1])はスコットランド・ロズウェル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

エディ・トムソン
名前
ラテン文字 Eddie Thomson
基本情報
国籍 スコットランドの旗 スコットランド
生年月日 1947年2月25日
出身地 ロズウェル
没年月日 (2003-02-20) 2003年2月20日(55歳没)[注 1]
選手情報
ポジション MF[4]/DF[5]
ユース
スコットランドの旗 ホワイトホール・ウェルフェアFC
スコットランドの旗 ペニキュイック・アスレティックFC
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1966-1973 スコットランドの旗 ハーツ 162 (4)
1973-1976 スコットランドの旗 アバディーン 91 (1)
1976 アメリカ合衆国の旗 サンアントニオ・サンダー 19 (3)
1977-1980 オーストラリアの旗 シドニー・シティーFC 66
代表歴
1969-1970 スコットランドの旗 スコットランド U-21 3 (0)
監督歴
1980-1986 オーストラリアの旗 シドニー・シティーFC
1986-1989 オーストラリアの旗 シドニー・オリンピックFC
1990-1996 オーストラリアの旗 オーストラリア代表
1997-2000 日本の旗 サンフレッチェ広島
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月14日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

来歴

現役時代

エディンバラ隣にあるミッドロージアン行政区のロズウェルで、炭鉱夫を親に持つ7人兄弟の末っ子として生まれる[3]。幼い頃からプロサッカー選手を目指して努力し[3]、ホワイトホール・ウェルフェアやペニキュイック・アスレティックでユース年代を過ごす[5]。15歳で学校を卒業しツイードミルの工場で働き始める[3]。

1964年17歳のときに地元クラブのスコティッシュ・フットボールリーグのハート・オブ・ミドロシアン(ハーツ)とプロ契約する[3]。この際、生まれて初めて着たブレザーとネクタイを締め生まれ故郷の小さな村ロズウェルを歩くと、トムソンの周りは黒山の人だかりとなった[3]。

1966年、ハーツでトミー・ウォーカーに抜擢されハーフバック(ミッドフィールダー)としてリーグ戦デビュー、翌1967年にはレギュラーに定着する[4]。この間スコットランド代表U-21代表に選ばれ3試合出場している[3]。以降トムソンはセンターハーフとしてプレーし、得点よりチームの守備を支えるプレーヤーとして重用された[4]。

1973年、移籍金6万ポンド[4] でアバディーンに移籍し3シーズン在籍する[3]。

1976年からスコットランドを離れることになる。同年北米サッカーリーグのサンアントニオ・サンダーに移籍し1シーズン在籍した[3]。

オーストラリアへ

1977年オーストラリアに新設されたオーストラリアン・ナショナルサッカーリーグ(NSL)のシドニー・シティーSCに移籍し、ディフェンダーとして同シーズン優勝に貢献する[3]。 1980年からプレーイングマネージャーとしても活躍し、同シーズン終了後に現役引退し監督に専念、1980年から3年連続でチャンピオンシップ優勝、1986年NSLカップ優勝。オーストラリア最優秀監督に3度選出(1981年、1984年、1985年)された。ちなみにリーグ3連覇はNSL記録でもあり、NSLで指揮した過去の全監督の中でも驚異的な勝利記録を残している[5]。

この間、オーストラリアサッカー連盟およびスコットランドサッカー協会の最上級ライセンスを取得した[7]。

1984年からオーストラリアB代表(五輪代表)監督を兼務するようになる。B代表初指揮はメルボルンで行われた対グラスゴー・レンジャーズFC戦であり、0-0の引き分けに終わる[5]。1985年からフランク・アロック率いるオーストラリアA代表でアシスタントコーチも兼務する[5]。

1990年、オーストラリアA代表兼B代表(五輪代表)監督に就任した[8]。オーストラリア代表監督はそれまでクラブチームと兼務する形が一般的であったが、トムソンがはじめて代表専任スタッフとなった[7]。A代表監督初指揮は、1990年9月6日ソウルで行われた韓国代表戦であり、0-1で負けている[5]。 1992年バルセロナオリンピックで最高記録となる4位入賞を果たした[5]。

1994年、ネディエリコ・ゼリッチのボルシア・ドルトムント移籍において不正な関与があったとして代表監督解雇騒動に発展したが、元老院の調査で証拠不十分となり処分を免れた[3]。

1994 FIFAワールドカップ・オセアニア予選を通過し、1994 FIFAワールドカップ予選大陸間プレーオフでは本大会出場をかけアルゼンチン代表と対戦するも敗れ本大会出場を逃す[注 2][7]。1996年、アトランタオリンピックでのグループリーグ敗退。同年末、サンフレッチェ広島からオファーを受けたため代表監督を辞任する[3]。

代表監督時代のトムソンは、ハリー・キューウェルやルーカス・ニールらの若いタレントを抜擢し才能を開花させた[5]。この抜擢された選手がのちに2006 FIFAワールドカップにおいてオーストラリア初のW杯グループリーグ突破に貢献している。

その後

1997年から4年間Jリーグ・サンフレッチェ広島の監督を務める[7]。チームの財政難から主力放出を余儀なくされ、カウンターアタックを信条とするサッカーを実践し、チームは常に中位から下位に低迷したがJ2降格しないように努めた[2][10][11][12]。時には、その守勢は他から批判された[13] が、終始貫いた[注 3]。オーストラリアコネクションを活かし、グラハム・アーノルド、ハイデン・フォックスやトニー・ポポヴィッチ、アウレリオ・ヴィドマー、スティーブ・コリカを連れてきたほか、久保竜彦、服部公太、下田崇をはじめ森崎和幸、藤本主税ら若手の底上げを図った[2][12]。1999年にはその抜擢したメンバーで天皇杯決勝進出に導いている[11]。

2001年オーストラリアへ「帰国」し、妻とキャンピングカーで旅行中に癌が発覚する[3]。同年9月悪性リンパ腫と診断され治療を開始し膵臓の摘出手術を行ったが、再発が確認され入退院を繰り返していた[2]。2003年2月20日深夜[注 1]、シドニー市内の病院で死去[1][3]。55歳だった[1]。

2002年オーストラリアサッカー連盟殿堂入り[3]。

監督成績

年度所属大会名試合数勝点勝利引分敗戦順位ナビスコ杯天皇杯チーム
1997年 J1st16218-810位予選リーグ敗退4回戦敗退 サンフレッチェ広島
2nd16155-1113位
1998年 J1st17197-1013位予選リーグ敗退ベスト8
2nd17249-89位
1999年 J11st15279066位2回戦敗退準優勝
2nd15217178位
2000年 J11st151971710位2回戦敗退4回戦敗退
2nd151861811位

脚注

注釈
  1. 当時の日本メディアは「20日」[1] と報じ、広島関係者の情報では「20日23時45分」[2] としているが、オーストラリアメディアでは「21日」[3] としている。日本メディアのソースはオーストラリアサッカー連盟発表のものである[1] ことから、20日を没日とした。
  2. 本大会に出場したアルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナはドーピング問題により処分されているが、後にこのプレーオフ段階から薬物使用していたと判明している[9]。
  3. トムソンの下でコーチをしていた望月一頼は、2006年残留争いをしていた広島の暫定監督に就任した際、トムソンの戦術を踏襲しチームを立て直している[14][15]。
出典
  1. “エディ・トムソン氏死去 元サンフレッチェ広島監督”. 共同通信 (2003年2月21日). 2013年5月30日閲覧。
  2. “Sanfrecce Hiroshima Canp News 2003 in 宮崎シーガイヤ”. enjoy.ne.jp. 2013年5月30日閲覧。
  3. smh.com.au
  4. “Eddie Thomson, RIP” (英語). SCOTTISHFITBA.net (2003年2月23日). 2013年5月30日閲覧。
  5. Australian Online Football Museum
  6. “プロフィール”. サンフレッチェ広島公式. 2013年5月30日閲覧。
  7. 「知将の証言」『週刊サッカーダイジェスト』1997年12月3日号,p21-23
  8. “日本サッカーに精通し、慧眼の持ち主だったエディ・トムソン”. サンスポ. (2018年3月8日). https://www.sanspo.com/article/20180308-LGEWT6OFJJKWRGV5YZBOTQEGMU/ 2020年2月20日閲覧。
  9. “Australia denies doping deal” (英語). sbs.com.au (2011年5月27日). 2013年5月30日閲覧。
  10. “存続かけ大ナタふるう”. 中国新聞 (1997年11月2日). 2013年5月30日閲覧。
  11. “エディ・トムソン元監督”. 渡辺徹アナブログ (1997年11月2日). 2013年5月30日閲覧。
  12. “ジャイアントキリング”. 広田みのるブログ (2010年5月3日). 2013年5月30日閲覧。
  13. “守るサンフレ完敗 ゴール遠し”. 中国新聞 (1998年8月5日). 2013年5月30日閲覧。
  14. “ピンポイント 手堅い望月流「合格」”. 中国新聞 (2006年5月6日). 2013年5月30日閲覧。
  15. “ピンポイント 監督に感謝のMVP”. 中国新聞 (2006年11月18日). 2013年5月30日閲覧。

参考資料

関連項目

外部リンク

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