斎藤孝治
略歴
古河藩士・斎藤三平の子[4]として江戸駒込の藩邸で生まれた[5]。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ[5]。1875年警視庁巡査となり[1]、西南戦争に従軍[5]。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった[1]。
1882年に代言人試験に合格し[5]、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事[1]。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった[1]。1912年に弁護士業を廃業して公証人となった[1]。
地方政界にも進出し、1899年に神田区から東京府会議員選挙に出馬して当選[6]、府会議長も2期(1903年10月 - 1907年9月、1915年10月 - 1917年8月)務めた[7]。
1917年8月22日、議長在任中に胃癌で死去[1]。葬儀は明治大学の校葬として同月26日に谷中瑞輪寺で執行され[8]、後藤新平・井上友一・高田早苗・尾崎行雄のほか、歌舞伎俳優や能楽師も[9]多数参列した[8]。
著書
脚注
- 『明治大学小史―人物編』 26-27頁
- 『図録明治大学百年』 46頁
- 『東京朝日新聞』 1917年8月23日
- 大植 1935, 1200頁.
- 『明治弁護士列伝:肖像入』 171頁
- 『東京府史 府会篇 第一巻』 388頁
- 『東京府史 府会篇 第一巻』 477頁
- 『東京朝日新聞』 1917年8月27日
- 斎藤は謡曲を好み、旧派俳優組合の顧問も務めていた(『東京朝日新聞』 1917年8月23日)。
- 『官報』 1917年8月25日
参考文献
- 東恵仁 『明治弁護士列伝:肖像入』 周弘社、1898年
- 東京府 『東京府史 府会篇 第一巻』 1929年
- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年。
- 明治大学 『明治大学六十年史』 1940年
- 明治大学創立100周年記念事業委員会・歴史編纂委員会 『図録明治大学百年』 明治大学、1980年
- 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3
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