徐幹
人物
旧家の生まれであったが家は貧しかった。しかし品行は優れ、文章も美麗典雅であった。建安年間、曹操に仕えて司空軍師祭酒掾・五官将文学へ昇進した[2]。
建安22年(217年)、華北で流行した疫病に倒れ死去した。
その人となりについて、曹丕は呉質への手紙の中で、「誠に頻々たる君子といえよう。その著書『中論』二十篇は、よく一家の言をなしたものであり、彼こそは不朽の人物である」と絶賛した。王昶は、自分の子供たちを戒める文書の中でその名を挙げ、「我が子が彼を手本とすることを希望する」と綴った[3]。『三国志』の著者の陳寿は、王衛二劉傅伝の評で王粲の功績を称えた後、「虚心にして大きな徳性を持った徐幹の純粋さには及ばない」と、王粲と比して徐幹を持ち上げている。
また、曹丕は著書『典論』の中で、「現代の文学者の七人」(いわゆる建安七子)の一人として徐幹の名を挙げているものの、辞賦の才については「徐幹は時に優れた気質を示すが、王粲の相手ではない」と評している。
史料
- 『三国志』魏書 巻21 王粲伝附 徐幹伝
脚注
- 中国の思想刊行委員会 編『三国志全人名事典』徳間書店、1994年11月、159頁。
- 王粲伝の注に引く『先賢行状』では、「曹操が建安年間に登用したが病気のため沙汰止みとなり、のち上艾県長への任命もまた病気のため就任しなかった」とも書かれる。
- 『三国志』魏書王昶伝
- 池田秀三「徐幹中論校注(上)」『京都大學文學部研究紀要』第23巻、1984年。
- メイカム, ジョン [Makeham, John]「徐幹の『中論』版本について」『中国研究集刊』第4号、大阪大学中国学会、17頁、1987年。
外部リンク
- 中論 - 中国哲学書電子化計画
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