虞昺
生涯
虞翻の11人の子のうち、8番目に当たる。若い時から俗事にこせこせせぬ大きな気概を備えていた。
呉に出仕して黄門郎となり、主君孫晧の下問に的確に答えることでその優れた才能が認められ、抜群の昇進をして尚書侍郎に任ぜられた。
太康の役の時に晋の軍が攻め寄せてきたとき、虞昺は持節をさずかり、武昌より上流地域の軍の総指揮にあたるべく派遣された。呉の軍が総崩れになったとき、虞昺は節と蓋と印綬を呉の朝廷に奉還したあと、晋に降伏した。
呉が滅びた後、済陰太守となり、権力者たちの横暴をおさえ、弱い者たちの後ろ盾となって、彼の異名は人々の間に知れ渡った。兄の虞聳よりも先に亡くなったという[1]。
虞昺は天文学にも通じ、著書の『窮天論』では、「空の形をしたドームは笠のようであり、地表は浮いている空気の上にある。」と大気の状態を他の説よりも科学的に記載している。
家系図
| 虞光 | 虞成 | 虞鳳 | 虞歆 | 虞翻 | 虞汜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞忠 | 虞𩦎[ft 1] | 虞谷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞潭[ft 2] | 虞仡 | 虞嘯父 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞聳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞昺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞察[ft 3] | 虞喜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞預[ft 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 『晋書』巻76に「潭之兄子也」とある。𩦎(馬+斐)は騑に同じ。読みはヒ(fēi)。
- 名は『晋書』巻76による。『三国志』巻57裴注の引く『会稽典録』には「忠子譚、字思奥」とある。
- 『三国志』巻57裴注の引く『会稽典録』に「聳書与族子察曰」とある。
- 名は『晋書』巻82による。『晋書』巻91には「弟豫自有伝」とある。
脚注
- 『会稽典録』
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