虞聳
生涯
虞翻の11人の子のうち、6番目に当たる。淡泊で物事に執着しない性格で、行動は礼にかなっていた。
呉の時代には、清官を歴任し、越騎校尉から昇進を重ねて、廷尉となった。呉の滅亡後には晋に仕えて河間国相を務めた。河間王司馬顒はかねてより虞聳の名を聞き知っていたため、虞聳を敬い厚遇した。
虞聳は有能な人物を推挙する際、まだ名が知られておらず、後ろ盾のないような家柄の者を対象とした。彼のやり方に虞聳の兄[1]の友人の王岐が異を唱え、高士というのは必ず群を抜いた才能を示すものだから、有能な人物が無名であるはずがないと主張した。
これを聞いた虞聳は、族子の虞察に宛てた手紙の中でこう述べた。 「現在の人材登用は、田舎にあってまだ人々から認められていない者を招いたり、数多くの中から才能のある者を捜すことがない。褒めたたえるのはすでによい評価を受けている者ばかりで、けなすのもすでに悪い評価を受けている者ばかりだ。このようなありさまだから、いつも私はため息をつくことになるのだ。」
また虞聳は、人々が葬儀や祭祀を盛大に執り行う風潮を嫌っていた。そこで弟の虞昺が死去したとき、霊前に少牢[2]を捧げ、会葬者にも酒とご飯を出すだけにとどめた。以後、彼の一族はみなこのやり方に従ったという[3]。
穹天論
虞聳は天文学者でもあり、『穹天論』を唱えている。
「天の形をしたドームは鶏のように膨らみ、幕を開けると四海に囲まれ、空気の上に浮かんでいる。 例えば、水を覆って水を抑制するが、水が無い場合は、ガスがそれに満たされる。 太陽は極の周りにあり、地球に出入りすることなく、西に行くことなく東に戻る。天は地球の30度下にあり、極の傾斜は地球の北30度ずれていて、人々は是の10万里以上南に存在し、天と地の耳の下に居ることになる。 黄道帯は毎日極の周りを移動し、北は黄道150度、南は黄道67度に及ぶ。 二至(夏至・冬至)の長短さもこれによって導き出される[4]」。
家系図
| 虞光 | 虞成 | 虞鳳 | 虞歆 | 虞翻 | 虞汜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞忠 | 虞𩦎[ft 1] | 虞谷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞潭[ft 2] | 虞仡 | 虞嘯父 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞聳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞昺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞察[ft 3] | 虞喜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虞預[ft 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 『晋書』巻76に「潭之兄子也」とある。𩦎(馬+斐)は騑に同じ。読みはヒ(fēi)。
- 名は『晋書』巻76による。『三国志』巻57裴注の引く『会稽典録』には「忠子譚、字思奥」とある。
- 『三国志』巻57裴注の引く『会稽典録』に「聳書与族子察曰」とある。
- 名は『晋書』巻82による。『晋書』巻91には「弟豫自有伝」とある。