日本とコロンビアの関係

日本とコロンビアの関係(スペイン語: Relaciones Colombia-Japón、英語: Japan–Colombia relations)では、日本とコロンビアの関係について概説する。

日本とコロンビアの関係
ColombiaとJapanの位置を示した地図

コロンビア

日本

両国の比較

コロンビアの旗 コロンビア 日本の旗 日本 両国の差
人口 5034万人(2019年)[1] 1億2711万人(2015年)[2] 日本はコロンビアの約2.5倍
国土面積 113万9000 km²[3] 37万7972 km²[4] コロンビアは日本の約3倍
首都 ボゴタ 東京都
最大都市 ボゴタ 東京都区部
政体 共和制
大統領制
(民主制)議院内閣制[5]
公用語 スペイン語 日本語(事実上)
国教 なし なし
GDP(名目) 3236億1598万米ドル(2019年)[6] 5兆819億6954万米ドル(2019年)[7] 日本はコロンビアの約15.7倍

歴史

在日コロンビア大使館(東京)

日本とコロンビアの外交関係は、1898年2月10日に日本政府が在米コロンビア代理大使に書簡を送り、二国間の外交関係を提案したことに遡る。

「日本とコロンビア間の条約交渉は賢明であるということに貴国政府が同意することを確信しています。なぜなら、友好関係にある国同士の条約締結はそれ自体常に望ましいことであるだけでなく、遠く離れている国の間での商業的関係を発展深化させる意味で必要なことであり、現在は国際的にも相互発展の端緒として重要なことと認識されているからです」[8]

これに対しコロンビア政府は「時期尚早」と回答[注釈 1] し、両国の国交樹立はいったん見送られたが、10年後の1908年5月25日にアメリカ合衆国ワシントンD.C.で「日本コロンビア修好通商航海条約」が調印され、同年12月10日に批准された事により開始された。

日本はコロンビアとの友好条約で最恵国待遇を与えなかった。そして、このことが1934年にコロンビアが日本との条約を破棄する口実に至った[8]。

初めて日本を訪れたコロンビア人は旅行家のニコラス・タンコ・アルメーロ(1830‐1890)であり、国交樹立前の明治4年(1871年)11月のことであった[注釈 2]。キューバ系コロンビア人のニコラスは裕福な資産家の息子で、日本の歴史、経済事情、風俗、日本人の宗教観などについて詳細に記した旅行記を出版している[9]。

ニコラスは日本の街並みの清潔さに驚嘆し、次のように記述している。

「都市が異常なほど清潔であり、秩序と節度があらゆる面に行き渡っていることについて、私の驚きを否定することはできない。街中には、酔っ払いも乞食も見当たらず、また、喧嘩や殴り合いもない」「皆が、自分を大切にし、他人を敬い、それぞれの仕事や商売に専念している。街路は、完全に清潔な並木道のようであり、家々は、銀の椀のようであり、お店や販売店は、実に掃除が行き届いており、きちんと整頓されている」[10]

一方、日本人の宗教観については以下のように記述している。

「日本人という人種はいまだ道徳的に遅れており、一定の宗教に対する確固とした信仰心を持っていない。日本人は基本的に懐疑的で、(宗教に)無関心で、不信心で、その知性の程度からして大きな宗教問題や真の人間の運命についての洞察にまでいたっているとは思えない」[11]

また、日本人像について辛辣な見方もしている。

「日本人は、生まれつき怠惰で無気力であり、これはすぐに見て取れ、このことは、日本人の生き方と習慣に現れている。中国人と異なり、浪費家であり、生きていくためだけの金を稼げば、満足している」「生来懐疑的であり、また、独善的でうわべだけを繕い、腹を立てている時でさえいつも口元に微笑みを浮かべ、そして、激怒せざるをえないようになった時でも、どんなことでも、派手に大笑いしてかみ殺す」[12]
「日本人は、どんなに模倣能力があり、吸収能力が高いとしても、知能が高いとは信じられない」[13]

コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人は庭師の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人(2名は氏名不詳)をコロンビアに連れて帰り[注釈 3]、川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された[注釈 4]。川口は日本で皇族の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信の下でも働いていた経験があり、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。渡航後の川口らの消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある[14]。

川口の次にコロンビアに入国した日本人は1915年、広島県竹原市出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャに移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人の源流となった[15]。

コロンビアは移民を積極的に受け入れた他のラテンアメリカ諸国とは異なり、ほとんど移民を受け入れない国だった。その理由として、国土を分断するように長大なアンデス山脈がまたがりインフラの開発が遅れていたこと、首都ボゴタが海から遠く離れた内陸の高地にありアクセスが不便だったこと、太平洋側の開発が進まず移民の受け入れに消極的だったことが挙げられる[注釈 5]。

このためコロンビアは南米では最も早い時期に空路を開設した国であり、コロンビアのフラッグキャリアであるアビアンカ航空はオランダのKLMオランダ航空に次いで世界で2番目に古い航空会社である。

20世紀初頭には千日戦争の影響でパナマがコロンビアから分離独立し、この地域へのアメリカ合衆国の影響力が強まった[注釈 6]。このことに脅威を感じたラファエル・レジェス・プリエト大統領は、米国に対抗し、人口が希薄なパナマ国境地帯の守りを固めるために日本人を入植させる計画に乗り気であったとされる[16]。しかし、コロンビア国内の政情不安や黄禍論の影響もあり、この計画は実現しなかった[注釈 7]。

在神戸のコロンビア領事館で領事を務めたホセ・マシアス(在任1923‐1926)は、日本人移民の受け入れに反対し、次のように述べている[注釈 8]。

「一般に、日本人は商取引に高潔ではない。偽善的でずるく、意欲とか長期構想に欠ける。彼らはコロンビアの社会環境に順応できないだろう。日本人は人種、宗教、言語、そして生活習慣といった面において我々とは全く異なり、精神構造もおかしい。身体は弱く、病気がちで劣性の隔世遺伝で肉体的にも精神的にも悩まされており、彼らの移民の波を止めなくてはならない。またわが国の先住民やメスティーソ(白人とインディオの混血)が日本人と混血するとなると、結果はとても悲惨な負のハイブリッド人種の登場ということになるだろう」[17]

その後、政変で国外に亡命していたレジェス元大統領が政界に復帰した1920年から日本人の移民計画が本格的に始まった[注釈 9]。レジェスは日本を訪問し、コロンビアへの移民募集を呼びかけた。レジェスは自ら日本人移民のための契約書を準備する用意があると述べた[注釈 10]。レジェスは中国人やインド人、黒人に対しては差別的感情を抱いていたが、日本と日本人の能力を高く評価していたのである[18]。

1929年からコロンビアへの日本人の入植が開始された。主に福岡県から「農業試験移民」がコロンビア太平洋岸のカウカ県コリント郡、バジェ・デル・カウカ県バジェ平原などに移住した。海外興業株式会社はコロンビアへの移住を推奨するため福岡県内の町や村に次のようなキャッチコピーの広告を掲載した。

「この世に天国があるとすれば、それはコロンビアの移住地を指す」[19]

コロンビアは1918年に日本駐在の最初の名誉領事を任命し、1919年には最初の領事館を横浜に開設し、1934年に東京に公使館を開設した。1930年には日本とコロンビアの港湾を結ぶ最初の直行便が開設された。

一方、日本は1934年に最初の外交団をボゴタに派遣し、同年、ボゴタに帝国大使館を開設した。戦後の1957年には両国ともに大使館に格上げした。

1928年、昭和天皇即位の礼の式典にコロンビア領事の席が用意されておらず、激怒した領事がコロンビア政府に日本との友好条約破棄を提案した。その主な理由として、日本がコロンビアに最恵国待遇を与えなかったこと、貿易の不均衡を挙げた。当時、日本政府はコロンビアからの輸入品に対して100-300%という高い関税を課しており、公正な貿易関係には程遠い、というものであった[20]。

当時、コロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ドミニカ共和国、ハイチなどの中南米諸国では「貿易不均衡の是正に日本政府は不誠実である」との認識が広がっており、数か国が友好条約の破棄という報復手段に出ていた[21]。

コロンビア政府も貿易赤字が増大する一方という事態に不満を持ち、ボゴタに公使館が設置された直後の1934年10月30日に友好条約を破棄した[21]。

こうした状況にもかかわらず、コロンビアに日本人移民を積極的に受け入れようとする動きがあった[注釈 11]。ミロクレテス・ドゥランゴというコロンビア人は日本の外務大臣宛てに少なくとも2回書簡を送り、コロンビアの国土の5分の1相当の土地を提供し、日本の総人口の10分の1程度の移民を受け入れる用意があると述べ、具体的にはプトゥマヨ県やサンタンデール県への入植計画、太平洋沿岸に2箇所の日本人移住地を建設する計画を挙げている[22]。

1941年12月の太平洋戦争開戦で両国の外交関係は断絶した。第二次世界大戦で連合国に参戦したコロンビアは対日宣戦布告はしなかったものの、枢軸国である日本、ドイツ、イタリアとの国交を断交した[注釈 12]。このため日本では在京のスイス大使館がコロンビア政府の代理代表となり、コロンビアでは在ボゴタのスペイン大使館が日本政府の代理代表となった[23]。

戦時中、コロンビア在住の日本人はコロンビア人の憎悪の標的となり、バランキージャでは日本人経営の商店や理髪店、レストランなどが投石の被害に遭い、日本人が罵倒されることもあった。また、商店では日本人への商品の販売を拒否するところもあった[23]。

カウカ県の日本人移住地では、一軒一軒の家が離れていたため、略奪の対象となった。母子家庭の家に強盗が押し入り、抵抗した日本人女性が殺害される事件(イシバシ・モモヨ殺害事件)も起きた[23]。

日本人移民は自衛のために銃器で武装したが、警察に押収された[注釈 13]。日本人移住者は強盗が武装していることを知っており、強盗に襲われた場合は抵抗せず、彼らの要求するものを差し出すことにした[24]。

バランキージャでは、ある日本人男性が宝くじに当選したが、敵国人であるという理由で当選金が支払われなかった。そうした対応が全国紙に掲載されたところ、その措置を称賛する声が集まった。この男性はコロンビアで事業に失敗し、日本に帰国することを考えていたが、宝くじの当選金が支払われず、帰路の旅費を工面することができなかった。日本の親類とも疎遠になっていたため、人生を悲観したこの男性はマグダレーナ川に投身自殺した[23]。

アメリカは米国の生命線であるパナマ運河に地理的に近いコロンビアの日系人を国家安全保障上の重大な脅威とみなしていた[注釈 14]。米国は日本とコロンビアが接近し、コロンビアがアトラト川とナナピ川を経由して大西洋と太平洋を結ぶ別の運河を建設するために日本人移民を積極的に受け入れるのではないかとの疑念を深めたのである[25]。

米国は「コロンビアにとって日本は敵である」という印象を植え付けるため、あらゆるデマを流した[注釈 15]。コロンビア在住の日本人がスパイ行為や破壊活動に関与したとして証拠もなく告発された[注釈 16]。太平洋沿岸に日本の潜水艦が出没し、ゴムボートで上陸した日本人がゲリラ活動に必要な武器や装備を携え、パナマ運河の破壊に使用するための軍用品がトゥマコに陸揚げされたという噂が広がった[23]。

戦時中、一部の日本人はクンディナマルカ県フサガスガの敵国人収容所に収容され、日本人移住地は厳重な監視下に置かれた[注釈 17]。しかし、このような状況下でも日本人移民の農地の拡大・分散が続いた[注釈 18]。

「コロンビア人の地主は、当初はただの草地だった場所が整然とした耕地に変わるのを見て仰天し、借地契約に消極的だったが、そのうち日本人が放牧地を耕地に変えて付加価値を高めることを理解したため、日本人に土地を貸すのにためらわなくなった」[26]

戦後の1954年に両国は国交を再開し、21世紀の今日に至るまで友好関係が続いている。

要人往来としては1989年にはビルヒリオ・バルコ・バルガス大統領が、1994年にセサル・ガビリア大統領が訪日し[27]、1999年にアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領が[28]、2005年にアルバロ・ウリベ大統領が[29]、2011年にフアン・マヌエル・サントス大統領が訪日している[30]。

日本の要人としては1984年に福田赳夫元首相が、1985年に安倍晋太郎外務大臣が、1992年に海部俊樹元首相がコロンビアを訪問している。2014年7月、安倍晋三内閣総理大臣が現役の日本の首相として初めてコロンビアを訪問し、フアン・マヌエル・サントス大統領と会談した[31]。

現況

コロンビアの歴代政権は、米国との協調を優先しつつ、近隣アンデス諸国、メルコスール諸国及びヨーロッパ連合(EU)諸国との友好関係を維持。さらに日本を始めとするアジア・太平洋諸国との交流強化を外交政策の基本方針としている。特に2000年代以降は、メキシコ、チリ、ペルーと共に、メルコスールやアンデス共同体、南米共同体の加盟国間の経済統合を志し、また環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に代表されるアジア太平洋地域との政治経済関係強化を目標に太平洋同盟を形成するなど、アジア諸国との関係強化を打ち出している。このことから日本との交流もさらに深まっており、2015年には二国間で投資協定が結ばれた[3]。

経済においては、1996年以降、日本はコロンビアにとって米国とベネズエラに次ぐ三番目の貿易相手国となっており、2018年のコロンビアの対日輸入は1225億円、主要品目は自動車、鉄鋼、ゴム製品等であった。一方、対日輸出は814億円に上り、世界第三位の生産量を誇るコーヒーを筆頭に石炭、原油、切り花等が主要品目となっている[3]。

外交使節

駐コロンビア日本大使・公使

駐日コロンビア公使

  1. ドミンゴ・エスゲラ・プラタ(1934~1936年)
  2. アルフレド・ミチェルセン・マンティージャ

駐日コロンビア大使

  • エドゥアルド・レストレポ・デル・コラル(1967年~、信任状捧呈は10月18日[32])
  • ルイス・ゴンサレス・バロス(1972年~、信任状捧呈は10月18日[33])[34]
  • フィデル・ドゥケ・ラミレス[35](デュケ・ラミレス、1989年以前[36]~1991年[37])
  • ロドリゴ・ビジャミサル=アルバルゴンサレス(1992~1995年、信任状捧呈は5月28日[38])
  • ペドロ・フェリペ・バレンシア・ロペス(1995~1998年、信任状捧呈は1996年3月18日[39])
  • カルロス・リカルド・グティエレス・コレア(1998~2002年、信任状捧呈は1999年3月10日[40])
  • (臨時代理大使)ルイス・アマデオ・エルナンデス・シトウ(2002~2003年)
  • フランシスコ・ホセ・シエラ(2003~2007年、信任状捧呈は3月31日[41])
  • (臨時代理大使)ラウル・アルトゥロ・リンコン・アルディラ(2007年)
  • パトリシア・エウヘニア・カルデナス・サンタ・マリア(2007~2014年、信任状捧呈は3月14日)
  • ロベルト・ベレス・バジェホ(2014~2015年、信任状捧呈は7月2日)
  • (臨時代理大使)アレハンドロ・ポサダ・バエナ(2015~2016年)
  • ガブリエル・ドゥケ(2016~2018年、信任状捧呈は9月7日[42])
  • (臨時代理大使)アレハンドロ・ポサダ・バエナ(2018~2019年)
  • サンティアゴ・パルド(2019~2022年、信任状捧呈は5月20日[43])
  • (臨時代理大使)フロル・アンヘラ・ドゥラン・コンスエグラ(2022年~)

脚注

  1. 世界銀行 Population, total - Colombia
  2. 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要 - 2016年2月26日
  3. コロンビア共和国(Republic of Colombia)基礎データ 外務省
  4. 日本の統計2016 第1章~第29章 | 総務省統計局
  5. 日本国憲法で明確に定められている。
  6. 世界銀行 GDP (current US$) - Colombia
  7. The World Bank GDP (current US$) - Japan
  8. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、81頁。
  9. 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』(中央公論新社、2019年)
  10. 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、92頁。
  11. 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、169頁。
  12. 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、121頁。
  13. 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、122頁。
  14. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)3、92、107頁
  15. 寺澤辰麿『コロンビアの素顔』(かまくら春秋社、2016年)29-30頁
  16. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)34-35頁
  17. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、27頁。
  18. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、36頁。
  19. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、72頁。
  20. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、82頁。
  21. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、83頁。
  22. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、48頁。
  23. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、126頁。
  24. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、132頁。
  25. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)35頁
  26. イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、137頁。
  27. 要人来日日程(平成11年)日・コロンビア関係
  28. 要人来日日程(平成11年)
  29. ウリベ・コロンビア大統領の訪日(概要と成果)
  30. サントス・コロンビア大統領の訪日(概要)
  31. 安倍総理のコロンビア訪問(概要)
  32. 外務省情報文化局『外務省公表集(昭和四十二年下半期)』「七 儀典関係」「8 新任駐日コロンビア大使の信任状捧呈について」
  33. 外務省情報文化局『外務省公表集(昭和四十七年)』「六、儀典関係」「31 新任駐日コロンビア大使の信任状捧呈について」
  34. Luis González Barros, Embajador (b. - 1998) - Genealogy (スペイン語)
  35. Foreign Representatives, Heads of Missions and Accompanying Persons at the Ceremony of the Enthronement of the Emperor at the Seiden | Diplomatic Bluebook 1991 (英語)
  36. List of Official Mourners Representing Foreign Countries and International Organizations at the Funeral Ceremony of Emperor Showa | Diplomatic Bluebook 1989 (英語)
  37. ご引見(平成3年) - 宮内庁
  38. 信任状捧呈式(平成4年) - 宮内庁
  39. 信任状捧呈式(平成8年) - 宮内庁
  40. 信任状捧呈式(平成11年) - 宮内庁
  41. 新任駐日コロンビア共和国大使の信任状捧呈について | 外務省
  42. 駐日コロンビア大使の信任状捧呈 | 外務省
  43. 駐日コロンビア大使の信任状捧呈 | 外務省

注釈

  1. 当時、コロンビア国内は連邦主義者と中央集権派の保革対立から内戦状態が続いており、こうした政情不安が影響した可能性がある。
  2. ニコラスは1830年、コロンビアのボゴタで生まれ、父親のディエゴ・ニコラス・タンコは1827年に当時のコロンビア蔵相を務めた。パリとニューヨークで教育を受け、1851年にコロンビアに帰国後、当時のホセ・イラリオ・ロペス政権を誹謗した廉で投獄された。出獄後、キューバに亡命し、製糖工場に勤務。1859年まで香港に在住し、1860年に帰国して中国旅行記を出版。1871年から三度目の東洋旅行に出発し、ニューヨークからサンフランシスコ経由で日本に入国。中国、ベトナム、シンガポール、セイロン(現在のスリランカ)、エジプト、イタリア、フランスを渡ってコロンビアに帰国後、1888年に日本旅行を中心とした『最近の旅行の想い出‐日本』を出版した。
  3. イスキエルドは当時のコロンビア大統領ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられていた。川口の他に助手の庭師1人、大工1人を連れてコロンビアに帰国した。川口以外の氏名や消息は不明。
  4. 川口は思う存分その才能を発揮して森を整え、博覧会は彼が配置した樹木や花壇の中で行われた。博覧会後、森は政府に収用され「独立記念公園」となり、公園の東側に隣接する市街地は「イスキエルドの森」と命名された。
  5. イスキエルドの訪日後、コロンビアへの日本人移民の可能性について調査するため、日本政府から野田良治がコロンビアに派遣された。野田は帰国後、コロンビアへの日本人の移民は慎重になるべきと報告し、その理由として、日本とコロンビアの直通航路がないためコストが高くつくこと、コロンビア国内の交通には問題が多く、上陸後の日本人移民が移住地に移動することや他の場所に移ることも困難であること、険しい山岳地帯に占められた国土が大半で、農作物の種類も限られていること、等を挙げた。
  6. パナマはコロンビアの一州に過ぎなかったが、コロンビアの内戦と政情不安に乗じて1903年に独立を宣言した。将来開通するパナマ運河の権益独占を狙っていた米国がパナマの独立運動を支援し、コロンビアに海兵隊を上陸させて圧力をかけた。
  7. 1931年に国別の移民割当制度が実施された。ブルガリア、中国、ギリシャ、レバノン、リトアニア、パレスチナ、ポーランド、ルーマニア、ソ連、シリア、トルコ、ユーゴスラビアの移民希望者を5人または10人単位で受け入れるというものだったが、この割当制度は日本人には適用されなかった。1929年9月、横浜のコロンビア領事は本国政府から「黄色人種やソ連、シリア、ポーランド出身の移民希望者へのビザ発給を控えるよう」命じられた。
  8. マシアスはコロンビア人ビジネスマンと日本の移民業務取扱会社の双方から「かなりの数の日本人をコロンビア太平洋沿岸に移住させる共同移民事業」の申請を受けたが、無視した。このことについて当時のコロンビア外相ホルヘ・ベレスに対し、「私は非常に忙しかったので時間内に必要な資料を申請者に提供できなかった。私はこの不可解な国の事はよくわからないが、コロンビアにとって日本人の移民は有益ではないことを貴下に伝えることが私の義務だと信じている」と釈明した。
  9. レジェスは1849年、コロンビアのボヤカ県サンタロサ生まれ。アマゾンの熱帯雨林を探検し多くの川を発見した。コロンビアからキナ樹皮(マラリアの特効薬)をヨーロッパに輸出する会社を経営した後、軍役に就き1885年の内戦に参加。1895年の内戦に勝利し保守党の重鎮としてコロンビア大統領(在任1904-1909)を務めた。コロンビアからの独立を宣言したパナマの軍事的奪還に失敗し、1906年に暗殺未遂(首謀者は処刑)に遭い、1909年のクーデターで政権を追われ欧州に亡命。任期中にコロンビア経済を立て直すため中央銀行を創設し、酒とタバコの専売制、鉱業、繊維、製糖、製油、製紙など産業を振興し、バナナ、コーヒー、綿花の輸出に力を入れ対外債務を一掃するなどの功績を上げた。亡命後はスペインとフランスに住み、コロンビアに帰国後の1921年に死去。
  10. レジェスが自ら日本に赴いて移民を募集した背景には、コロンビア農業者協会(SAC)から外務省と農務省に送られた嘆願書があった。この嘆願書では、鉄道敷設工事のために農業労働力が不足しており、その解決策としてSACが「日本人移民がコロンビアにとって最も適している」とコロンビア政府に提言し、日本に交渉団を派遣し、移民を募集するよう求めている。
  11. 1910年代の終わり頃からコロンビアでは労働力不足が問題になり始めていた。コロンビアは広大な国土を保有するが開発のための十分な人口がなく、労働者不足から経済問題が解消されないことが悩みの種であった。1924年にはアトラト川下流の森林地帯開発のため10000人から16000人の契約労働者として日本人移民を受け入れる計画があった。また1925年には米国在住の25000人の日本人をコロンビア大西洋岸に移住させる計画があった。
  12. 第一次世界大戦でイタリアは戦勝国だったが、イギリスやフランスのように賠償金を獲得できず、巨額の戦費が国家財政を圧迫し戦後は大不況に陥り大量の失業者が発生した。このためイタリアはコロンビアからコーヒー豆を輸入する見返りに国内の失業者を移民労働者としてコロンビアに派遣する計画があった。
  13. 地元の新聞は警察の家宅捜査の成果として「ショットガン12丁、リボルバー拳銃3丁、護身用ピストル2丁が県警察の強制捜査により没収された」と報じた。コロンビアでは1955年まで個人の銃器所有が合法だった。
  14. 米国はコロンビアがパナマを取り戻すために日本と協力するだけでなく、パナマ運河に代わる運河の建設計画を進めているのではないかと疑っていた。1905年10月21日付のコロンビアの新聞「エル・キュメリオ」に掲載された「太平洋沿岸地域の経済開発のためコロンビアに日本人移民を導入することのメリット」という記事が米国の警戒心を煽ったとみられる。
  15. コロンビアがアマゾン地方のレティシアの領有権を巡り、ペルーと戦争になった1932年のコロンビア・ペルー戦争で、日本がペルーに軍事援助を行ったという噂話があり、そこからコロンビアにおける対日不安が増幅したとみられる。
  16. 米軍情報部の1943年のレポートによれば、1938年6月、コロンビアの鉱山会社に雇用された4人の日本人技師がエクアドルから北側のすべての川を調査したという。また、日本陸軍か日本海軍所属の日本人地質学者が1939年、1940年、1941年にコロンビアに入国し、諜報活動の一環として地図を作成し写真撮影をしたとして告発された。米国諜報機関は、1940年から1941年にかけてコロンビアの大西洋岸を訪問した日本人の正体は「カカオの密輸ルートを利用して軍需物資を運搬しようとした工作員」であり、パナマとコロンビアの国境地帯に住む先住民クナ族からジャングルを抜けるための秘密の道路について調べていたと報告した。
  17. 米国の諜報機関は情報員を日本人移住者の多いカウカ県などのコロンビア太平洋岸に何度も派遣し、日本人男性の個別面談を実施して個人情報を収集した。
  18. 日本人移民は当初、陸稲を栽培したが失敗し、続いてソバ、綿花、ユカ芋、ジュート等の栽培を試みたがいずれもうまくいかず失敗した。最終的にうずら豆の栽培に成功し、農機具を導入して移住から8年後の1937年にはトラクター25台を所有。耕作面積も2倍半の227ヘクタールに拡大した。戦後の1950年には耕地面積が5000ヘクタールを突破し、1970年には大豆5000トンを日本に輸出した。

参考文献

  • イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)
  • 寺澤辰麿『コロンビアの素顔』(かまくら春秋社、2016年)
  • 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』(中央公論新社、2019年)
  • 二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)
  • コロンビア共和国(Republic of Colombia)基礎データ 外務省

関連項目

外部リンク

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