濃人渉

濃人 渉(のうにん わたる、1915年3月22日 - 1990年10月10日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手内野手)・監督名古屋金鯱軍契約第1号選手。1961年5月4日1962年に「濃人 貴実(のうにん よしみ[1])」と一時改名。

濃人 渉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市
生年月日 1915年3月22日
没年月日 (1990-10-10) 1990年10月10日(75歳没)
身長
体重
167 cm
56 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1948年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴・人物

生い立ち

両親はハワイカウアイ島に暮らしていたが、母親が姉二人を連れて広島に残した父親の母を世話するため帰国。このとき母親は妊娠中で渉は広島で生まれた[2][3][4]。船で太平洋を渡って帰ったから、名前が渉という[5]。ところが、渉の誕生を知った父親がハワイで出生届を出したため、日本生まれでアメリカ国籍を併せもつという本来ありえない二重国籍者となった[2][4][5]。父親はカウアイ島ワイメアで雑貨商と電気工事会社を経営[2]、1925年創立のカウアイ(加哇)日本人野球リーグ生みの親となった[4]。中学卒業まで母親と広島で育つ[5]

現役時代

1932年旧制広陵中(現・広陵高校)で春選抜に出場、名遊撃手として鳴らすが、チームは明石中の名投手・楠本保に先発全員三振を喫し完封負け初戦敗退。楠本はこの試合を含め合計3度の先発全員三振奪取を記録、他に2度記録した投手すらいない大記録である。夏選手権は広島予選決勝で藤村富美男の大正中(のち呉港中、現・呉港高等学校)に敗れた。

1933年卒業後、父親に呼ばれ無理にハワイへ行くが、「ハワイは暑くて嫌い」と日本に戻り[2][5]、広陵中出身の先輩が多い明治大学への進学を準備中、やはり広陵野球部の先輩から引っ張られ広島専売局(現・JT広島支局)へ入社[4]。広島専売はバレーボールの強豪(現JTサンダーズ広島)で知られるが、当時は野球も強く濃人以外にも数人のプロ野球選手を輩出した他、1932年に来日した米ニグロリーグのロイヤル・ジャイアンツ相手に、日本の単独チームとして初めてアメリカのプロ野球チームに黒星をつけたことで、日米野球史にその名を残している[6]

1935年名古屋新聞社が野球会社設立の準備を始めると同年5月頃、岩本義行を介して岡田源三郎から誘われ[4][5]、11月1日監督に決定した岡田に続き、契約第1号選手としてチーム創設に参加[7]。背番号8。この会社が翌1936年1月にチーム編成を完了する名古屋金鯱軍で、その母体となる≪株式会社・名古屋野球クラブ≫の設立が同年2月28日となる[8]。同年2月9日鳴海球場巨人との日本初のプロ球団同士の試合(現在のプロ野球組織に属する球団同士の初試合)にも8番ショートとして先発出場[2][9][10]。強肩の名ショートとして活躍。プレイングマネージャー中堅手だった島秀之助が肩を痛めたため、島の近くまで行ってトスを獲り、バックホームしてランナーを刺した。

1937年シーズン途中の7月に召集され、中国戦線に参加[2]1938年秋、広東の虎門要塞攻略戦に加わり、決死隊7人中、左半身に砲弾の破片を浴びながらただ一人生き残る[4][11]

1940年帰還し金鯱に復帰。同年石本秀一が監督に迎えられ師弟関係となる[5]。この頃国籍の二者択一を迫られ日本を選ぶ[2]。チームは翼軍に吸収合併され、大洋軍・西鉄軍と変わるがそのまま在籍し、戦時下の1943年までプレー。1942年5月24日対・名古屋戦、トップリーグにおける世界最長試合・延長28回のショート・2番打者としてフル出場、9打数1安打、4失策[9][12]1943年の西鉄軍の解散で、広島へ帰郷し開戦前に帰国していた父の経営する製材所を手伝う[2]。製材所は広島市皆実町二丁目(現南区)にあり[3]1945年8月6日広島への原爆投下により、爆心地から約2キロの同所材木置き場で被爆[2][3]。材木の下敷きになったが無傷だったといわれる[4]。ちなみに、プロ野球界で直接の被爆により被爆者健康手帳を持っている(持っていた)のは、張本勲と濃人[13]のみとされている(直接被爆者自体は他にも、1954年に広島カープへ入団した原田高史がおり、原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では岩本義行が交付を受けている)。広島での原爆体験はあまり語らず、医療費などが無料となる被爆者健康手帳も「他に困っている人がたくさんいる」と懐へ忍ばせたまま使わなかったという[14]

戦後は1946年、広島の社会人野球チーム・鯉城園の選手として第17回都市対抗野球大会出場[15]職業野球経験者をずらりと揃えながら、初戦で優勝した大日本土木に惨敗した。この後、阪急ブレーブス村上実代表に誘われるが父親の製材所を継ぐために断る[5]。しかし今度は広陵の後輩・倉本信護(濃人より年長者)と田部輝男らがしつこく誘うため、門前眞佐人らと国民野球に参加した[15]農業をしていた石本秀一を監督として口説きグリーンバーグ結城ブレーブス茨城県結城市)でプレー。主将・トップバッターとしてチームを牽引、また資金難から地方巡業から帰ると焼け跡の東京を歩きまわり金策にも奔走した[5]。国民リーグで一番のスター選手だった濃人は巨人から勧誘された。巨人球団代表市岡忠男の使い鈴木龍二(のちセ・リーグ会長)から「巨人が君を欲しがっている。千葉茂とコンビを組んだらもっとスターになれるよ」と言われたが、石本に相談すると一喝された[5]。国民リーグは多くの問題を抱え1年で消滅。

1948年金星スターズに石本監督と共に復帰。選手過剰のため、2軍の金星リトル・スターズに在籍し同年現役引退[15]

野球指導者として

1949年、国民リーグで一緒だった真野春美が在籍していた日鉄二瀬(福岡県嘉穂郡日鉄鉱業二瀬鉱業所)野球部に引っ張られ同チームの監督に就き、厳しい指導で無名選手を鍛え上げ強豪チームにする[3][5][16][17][18][19][20][21][22][23]1951年第22回都市対抗野球大会のチーム初出場、翌第23回大会選手兼任監督1番遊撃手としてチームを牽引、準優勝に導く。1954年から監督専任、江藤愼一古葉竹識寺田陽介吉田勝豊らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得て九州の野球のレベルアップにも貢献[15][20][21][24]第29回大会1958年)で再び準優勝に導くなど11年指揮をとった。スポーツジャーナリスト越智正典1954年のサン大会(現在のスポニチ大会)で逞しく鍛えられた日鉄二瀬の魅力につかまり、何度も筑豊に足を運んだと話している[25]1959年退任(石炭不況が原因で1962年秋チーム解散)[21]。古葉竹識は「濃人から教わったことが、自身の野球人生の礎で全てだと思う」と話している[21]。広島の監督時代にベンチの端から顔を半分出して試合を見る姿が有名になったが、あれは濃人のマネだという[3][21]

1960年金鯱時代の知り合いで当時、中日の代表だった平岩治郎に誘われ、同チームの二軍監督としてプロ球界復帰[5][26]。翌1961年一軍監督に就任。日本のプロ野球監督では初めて背番号1を着けた[27]。「天知カラー」の一掃を図り[22][28]井上登吉沢岳男森徹伊奈努大矢根博臣岡嶋博治ら、生え抜きトレードを敢行しチームを改革[4][5][22][29][30]。これにより中日は1949年から固められた天知俊一体制から完全に決別した[22][28]が、反面、子飼いの江藤慎一権藤博を優遇したことから、チームは長年にわたる内紛体質を抱え込むことになる[23]

師匠・石本秀一をヘッドコーチに招き、「天知-杉下ライン」に代わる「石本-濃人ライン」を敷いて[22]与那嶺要らを入団させ、新人権藤博の大車輪の活躍で巨人より1勝多い72勝をしたにもかかわらず、引き分けの差で2位に甘んじる[22][26][31][32]、4月20日に日本生命で活躍していた内野手柳川福三を獲得し、柳川事件を起こして、プロとアマの断絶を招いた[33]。この時代では斬新だったカラフルユニフォームへの変更は話題を呼び[34]、翌年も3位と健闘したが、親会社(中日新聞社)の「六大学出身の監督が欲しい」という理由で解任され、球団技術顧問という閑職へ追いやられる[35]

解任の背景には当時、中日新聞社が、中日の前身・名古屋軍の親会社だった新愛知と、名古屋金鯱の親会社だった名古屋新聞の合併会社であり、両社の出身者が持ち回りで球団オーナー・社長・代表のいずれかを務める取り決めから、球団社長もしくは代表が1962年までは名古屋新聞系で、翌1963年からは新愛知系の人物が就任する事が決まっていた(この時点でのオーナーは名古屋新聞系の与良ヱが続投)、という事情があった。それに加えて、自身のノンプロから、江藤慎一など子飼いの選手を入団させた一方、生え抜きの選手を多く放出した事から、地元名古屋で総スカンを食らっていた[5]。ただ、森徹らを放出したことで選手の新旧交代が進み、高木守道は濃人が監督の時にレギュラーになった[36]。また、投手起用に関しては完全に旧世代の感覚しか持たず、大矢根放出の穴を埋めるためとはいえ、権藤博を酷使し、その選手生命を縮めさせた監督としても知られる。

濃人の後任として監督に就任したのは、中日OBで地元出身、さらにフロントの希望していた六大学のひとつ・明治大学出身の杉浦清(1度監督経験があるので、厳密には復帰)だった。そして、ドラゴンズブルーのユニフォームがはじめて登場する事になったのも、1963年の事である。

メジャーリーグ視察後の1963年秋、東京オリオンズからヘッドコーチに招かれる[35]1967年、成績不振で解任された戸倉勝城監督に代わり永田雅一オーナーに請われ、8月途中から監督昇格[34][35]同年のドラフト会議で、植村義信投手コーチの進言で村田兆治を1位指名[37]1969年近藤貞雄を再び投手コーチに招聘[38]有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢[39]、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男木樽正明小山正明、打の江藤愼一アルトマン榎本喜八山崎裕之有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝[40][41][42][43]。しかし日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れた。飯島秀雄在籍時の監督でもあった[44]

1971年7月13日阪急西宮球場での対阪急戦において、日本プロ野球史最後の放棄試合(フォーフィテッドゲーム)を起こす[45][46][47]。7回表、江藤愼一のスイングをめぐって主審の砂川恵玄が判定を「ボール」から「ストライク」に変え、これに納得いかなかった濃人は執拗に抗議[47]。抗議は終わらず、苛立つファンがグラウンドに雪崩込み、江藤や砂川球審に殴りかかる輩も出て、警官隊が出動する事態となり、空き缶・空き瓶、食べかけの焼きそばお好み焼き、靴まで投げ込まれる無秩序状態となった[47]。責任審判の田川豊一塁塁審が、濃人に提訴を条件に試合再開を頼んだが、濃人はこの提案を突っ張ねた[47]。来場していたオーナーの中村長芳の指示もあって試合続行を拒否[45][48]。後のパ・リーグ審判部長、前川芳男は「あの温厚な濃人さんが…」と事件を聞いて驚いたが[14]、放棄試合は現場にいた中村の独断に近く、すでに濃人の意志が反映される状態になく[14]、放棄試合が宣告され0-9で負けた[47]。日本プロ野球では1968年に放棄・没収試合は厳禁という規制が出来ていたため、この試合以降放棄試合は起きていない[48]。ロッテに課せられた制裁金は200万円[47]。これにロッテの選手らが西宮球場から出る際に乗ったバスが投石などによって破損したため、その修理や弁済に約300万円[47]。放棄試合の場合、主催球団の被った利益も補償しなければならず、入場券の売り上げ等、約1,000万円[47]。当時の総理大臣の月給が66万円だった時代に1年分の給与を軽く上回る負担に只でさえ経営の苦しいロッテはさらに自分の首を絞めることになった[47]

7月24日には首位阪急ブレーブスとのゲーム差が8に広がると、前年パ・リーグを制したにもかかわらず[39][45][47][49]、二軍監督へ降格された[39]。濃人に代わって一軍監督に昇格したのが二軍監督の大沢啓二だった[47][50]。濃人を監督の座から追いやった中村長芳が太平洋クラブライオンズのオーナーになり[51]、シーズン終了後、中村から「球団経営には監督を体験し、選手の力を見抜く人物が必要。濃人クンは、日鉄二瀬で選手作りの神様といわれただけあって九州での知名度もあるしピッタリ」と、濃人に太平洋クラブライオンズの球団社長就任を要請したが[51]、これを拒否し[51]、ロッテのスカウトに転出した[51]。「実力不足を世渡りのうまさでカバーする野球人の多い中、球団社長をソデにしてスカウトの道を選ぶ人がいるとは…」と「男の中の男」と株を上げた[51]

1975年ドラフト会議では、スカウト部長として「使いものにならなかったら腹を切る」と啖呵を切って田中由郎を全体1位で強行指名[52]。結局、田中は物にならず、約束通り濃人は1978年退団。このため田中には「人斬り」というあだ名が付いた。1977年頃から並行して広島テレビ野球解説者も務めた[48]。退団後の1979年からは、スカウト時代から兼務していた広島テレビの野球解説者に専念、愛弟子の古葉竹識が率いるカープの戦いぶりを見守った[14]

1990年10月10日死去。75歳没

帝国ホテル大阪総支配人・顧問を務めていた濃人賢二は実子[53][54]。孫は濃人一仁。

エピソード

  • 二重国籍の問題については「日米戦争になる前、1939年か1940年にどちらかを選択しなければならなくなり、日本国籍だけにした」という[4][5]
  • 濃人は1947年に参加した国民リーグに対しては当初参加を断っていた。しかしスポンサーが「ニッサン自動車」と聞き「それなら安心」と入団した。この「ニッサン自動車」は芙蓉グループの大企業である「日産自動車株式会社」ではなく「日本産業自動車」という自動車用クラクションを製造する零細工場で略称を「ニッサン自動車」と呼ぶものであった。「日本産業自動車」は「日産自動車」とはまったく無関係であり、結果として濃人は勘違いでチームに入団することになった。案の定、この会社は間も無く経営が行き詰まり石本秀一監督と濃人は金策に走った。解散だけは避けたいと新たなスポンサー探しに地方巡業から帰京するたび焼け跡の東京を歩き回った。新聞記者からの情報で、金持ちの野球愛好家がいると聞き濃人はその人物の自宅を訪ねた。人物はのち政界に転じて、三木武夫派の重鎮となる井出一太郎で、温厚な井出は濃人の申し出を快く引き受けてくれポケットマネーで5万円を包んでくれた。ところが石本も広島商業時代の教え子で、建築資材販売を経営するスポンサー、土手潔を探してきた。石本の顔をつぶす訳にもいかず、濃人は翌日石本を伴い井出邸を訪れ事情を話し5万円を返却。井出は人間が大きく嫌な顔一つしなかったという。
  • 「権藤、権藤、雨、権藤」のプロ野球界の名フレーズを引き起こした権藤博の酷使については色々言われるが[3][22][26][32]、権藤自身は当時「ノン・プロ時代から世話になっている濃人さんにこれだけ期待されているのですから、二、三年で肩がつぶれても悔いはありません。男として思いきりやるだけです」と人生意気に感ずる気持を語っていた[55][56]。大エースがファンの夢を一身に背負い、投げ続けた時代[57]「一旗揚げようと思ったのだから、太く、短くでいいですよ」と酷使を恨む言葉は聞かれない[32][57]。一方で、肩の痛みを訴える権藤に「たるんでるからだ!」と平然と言い放った事でも知られる[31]。この年、石本秀一とともに投手コーチだったのが近藤貞雄で、近藤は自著『野球はダンディズム'88』の中で「当時はまだ若輩で、濃人監督・石本ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」と話しているが[58] 近藤はこの年の反省と、後に触れた元ヤンキースジョニー・セイン投手コーチの理論から「投手分業制」を球界に持ち込むことになる[59]
  • 弟子はとことん可愛がるが、感情的に相容れない選手は徹底的に嫌う、というような感情にまかせた選手起用をしたともいわれ[23][28]、濃人や弟子の江藤愼一と合わなかった早稲田大学出身のチームの主砲・森徹を徹底的に干した挙句、放出したことでも知られる[23][22][29][60][61]。またこの確執が、柳川事件の遠因だったのでは?と森は自責の念を感じ、グローバルリーグに日本チーム「ハポン・デ・トキオ」を設立して参加するなどした。近年、野球雑誌に載る森の記事の森のプロフィールには、この辺りを「諸事情あって若くして引退」と書かれる[62]。濃人自身は「九州勢とか地元勢とかいろいろ言われた。そういうことは根拠がない。だけれどもスポーツ紙はおもしろおかしく書きたがる。だから一般ファンが騒ぎ出した」と話して否定しているが[5]、濃人の前に中日の監督だった杉下茂は「昔のドラゴンズでいえば、濃人監督のときにはあの人の出身である九州の人間を大事に扱った。」[63] と述べ、暗に肯定している。
  • 板東英二の著書『プロ野球知らなきゃ損する』では、昭和36年の大トレードの内情を書き、濃人を批判している。それによれば、九州出身の選手でチームをかため身の安泰を図ったところ、干された主力選手達がそれに反発。対立は段々と深まり、ついには中日本社をも巻き込む大騒動となり、試合そっちのけで連日連夜、一本の道を挟んで濃人側がナイトクラブへ、主力選手側がバーへ集まり、相手を蹴落とすための作戦会議をしていたという。主力選手側の人間から裏切り者が出たことにより、最終的に濃人側が抗争に勝利、反濃人の主力選手を全員放出するトレードを行った。板東は「クリーンナップが全員放出されたんだから、このトレードのムチャクチャさが分かりますやろ」と述べ、続けて『水原茂はそのトレードについて嘆き、「中日は何ということをしたんだ。吉沢岳男をパに出してしまうなんて、セ・リーグの損失だ」と話した』と記述されている[64]
  • 前述のように1961年から1962年の間「濃人 貴実」と改名していたが、姓名学者から「渉という名前は、苦労がつきまとって、勝負師にはふさわしくない」と言われたことでの改名だった[1]
  • 木樽正明は「物静かで穏やかな人でした。右手にイボがあって、いつも掻いていました。私の事を大切に起用してくれましたね。この監督の為に頑張ろうと思いました。」[65]と述べている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1936春夏 金鯱 3131115000514--0--2--01--.455.538.455.993
1936 261149412131101683--4--16--010--.138.264.170.434
1937 542372112647320541411--8--17--110--.223.284.256.540
1939 51222178274491158178--8133--213--.247.371.326.697
1940 100450378398916541274513--16351--241--.235.329.336.665
1941 大洋軍
西鉄軍
873913202069800772313--7--64--024--.216.346.241.587
1942 10547239623828231031910315--60--133--.207.313.260.573
1943 84379308436010117519648--63--027--.195.332.244.575
1948 金星 6119416321275023817531--29--115--.166.295.233.528
通算:8年 571247220592124366012115531637310674335--7174--.212.324.269.593
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(大洋軍)は、1943年に西鉄(西鉄軍)に球団名を変更

監督としてのチーム成績

年度年度順位試合数勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢球団
1961年昭和36年2位13072562.562179.2412.4845歳 中日
1962年昭和37年3位13370603.5385107.2492.6846歳
1967年昭和42年5位13761697.4691487.2403.0151歳 東京・ロッテ
1968年昭和43年3位13967639.51513155.2623.3252歳
1969年昭和44年3位13069547.5615.5142.2603.1153歳
1970年昭和45年1位13080473.630166.2633.2354歳
1971年昭和46年2位13080464.6353.5193.2703.7755歳
通算81344234328.563

: ※1 1961年から1962年、1967年から1996年までは130試合制

: ※2 1965年、東京本堂安次監督の病気休養の6月17日から7月1日まで指揮(10試合5勝5敗)

: ※3 1967年、戸倉勝城監督休養の6月20日から7月30日、復帰した戸倉監督解任後の8月15日から閉幕まで指揮(67試合34勝31敗2分)

: ※4 1971年、7月23日に解任(74試合45勝27敗2分)

: ※5 通算成績は実際に指揮した試合

背番号

  • 8(1936年 - 1937年、1940年)
  • 1(1941年 - 1943年)
  • 5(1948年)
  • 61(1960年)
  • 1(1961年 - 1962年)
  • 51(1964年 - 1971年)

関連情報

出演番組

関連項目

参考文献

脚注

  1. よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part4 1961年編(ベースボール・マガジン社、2023年8月刊)p.52
  2. “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(1)】 広島で原爆に遭遇 閃光と爆風”. 産経ニュース (産経新聞). (2015年8月10日). オリジナルの2015年8月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150815012420/http://www.sankei.com/premium/news/150810/prm1508100015-n1.html 2016年10月14日閲覧。
  3. 木村元彦 (2022–01–10). 闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで。貧困から名将や名スカウトとの出会い”. Sportiva. 集英社. 2022年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月1日閲覧。
  4. 永田陽一『ベースボールの社会史―ジミー堀尾と日米野球』p250、251
  5. 『プロ野球史再発掘(7)』151-189頁
  6. 日米野球の歴史 ~メジャーリーガー来日の歴史~”. 2019年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月19日閲覧。
  7. 批判的・日本プロ野球史 鈴木武樹三一書房、1971年12月、38頁。
  8. 批判的・日本プロ野球史、38頁。
  9. 鳴海&洲崎球場:ボクの思い出STADIUM:スポーツ”. 中日スポーツ(CHUNICHI Web) (2016年1月27日). 2016年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月19日閲覧。
  10. 日本プロ野球はこの一戦から本格的に始まった。80年前の歴史的試合を当時の新聞から振り返る”. エキサイトニュース (2016年2月9日). 2023年9月19日閲覧。
  11. プロ野球を創った名選手・異色選手400人、新宮正春著、1999年5月、講談社
  12. 『歴史への招待 22 昭和編』日本放送出版協会、1982年、93-113頁 「歴史への招待」(NHK総合テレビ1981年7月11日放送、 <延長28回 進め一億火の玉だ 昭和17年>)
  13. “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(4)】大リーグ視察経験 ロッテで念願の初優勝”. 産経ニュース. (2015年8月13日). https://www.sankei.com/article/20150813-MSXY677KVZJSDDRUXJ7RZATDEM/2/ 2023年4月1日閲覧。
  14. “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(5)】放棄試合…2軍監督へ降格 帰郷、古葉カープ見守る”. 産経ニュース. (2015年8月14日). https://www.sankei.com/article/20150814-S5XGFXF5ARNHNINMWIVST7ZTF4/ 2015年8月14日閲覧。
  15. “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(2)】終戦の翌年、都市対抗出場 51年から「濃人学校」でプロを育てる”. 産経ニュース. (2015年8月11日). https://www.sankei.com/article/20150811-OTD7KSIQJRIWPKMEIXZLYYI7OA/ 2016年10月14日閲覧。
  16. 闘将火と燃えて、江藤愼一、1975年、鷹書房、52-57頁
  17. 筑豊にノンプロの強豪…日鉄二瀬グラウンド : 追憶の舞台 : スポーツ特集 : 九州発”. YOMIURI ONLINE(読売新聞) (2009年5月14日). 2012年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月19日閲覧。
  18. キャッチボールを愛した男・吉田勝豊”. 東スポWEB (2016年3月27日). 2023年9月19日閲覧。
  19. 野球と出会い、恩師に導かれ、憧れのプロの世界へ”. 江戸川区 (2016年1月1日). 2016年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月19日閲覧。
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外部リンク

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